いていたわけだが、夫が今日、特に作家の教養という外形で、教養という問題一般への緒口となっているのだ。
 そういうなら当然、文芸批評家の教養というものも問題にならずには措かないわけだが、それに就いてはおのずから触れることも出来よう。いずれにしても之を単に文学の世界だけの問題として片づけることは、それこそ教養のない片づけ方と云わねばなるまい。と云うのは現に、作家の教養に就いての要求は、作家の社会的歴史的知識、そうした社会理論や一般の科学的認識、を要求するということがその動機の一つだったのであって、夫は明らかに作家が単なる文学の世界乃至文壇にその作家意識を局限してはならぬという、注文なり反省なりの結果であったからだ。
 教養の最も卑俗な観念は、多分ディレッタンティズムに於けるそれだろう。ディレッタンティズムそのものに就いても色々の理解の仕方があるわけだが、今は之をごく普通に用いられている意味に取るとする。即ち一種の有閑層が有つ感覚の一定条件による階級的洗練というような意味に取るとする。そういう形のディレッタンティズムによる教養の観念は、一見極めて教養的で従って高尚なようなものだが、それにも拘らず、この教養的である点自身が卑俗の卑俗たる所以なのである。なぜならこの場合、教養のあるなしは要するに或る一定の趣味に合うか合わぬかで決められるわけで、その趣味たるや片すみのすたれ行く階級によってマンネリズム化された退屈至極な固定観念以外に、意味がないからだ。極端な場合になると、通[#「通」に傍点]や通人[#「通人」に傍点]というものが之で、これ程悪趣味で無教養な現象はないのである。いや単に悪趣味や無教養だというだけでなく、そうしたものが特に「馬鹿」な慢心に由来することによって、より一層悪趣味となり無教養となるのである。
 こういう意味の教養は、社会の或る種の層を通じて多々ある現象なのだから、もっと詳しく解剖しなければならないのだが、教養というもの自身が何かという今のさし当っての問題にとっては、問題にならぬものとして一応取り除いておこう。――次に考えるべきものは、教養と知識の所有[#「知識の所有」に傍点]という処から理解しようとするやり方である。例えば歴史的知識を沢山持っているとか、色々の活社会や科学に就いて、又色々の芸術作品に就いて、知識の分量を人より多く持っていることが、その人間の教養の高さだという風に考えるやり方である。だが沢山の知識を持っていながら一向纏りのない人間もいるのであり、逆に知識の数は特に豊富でなくても、一つ一つの知識が生かされているために見識か識見かの高邁な人間も少なくはない。知識の欠乏は人間を低くするものだが、そうかと云って単に知識の分量の多いことだけで人間の眼は高くはならぬ。問題は知識の分量ではなくて知識の質であり、而も良質な知識材料を質的にすぐれた仕方で物にすることが、初めて人間を高邁にもするだろう。この要求をはずれれば、人間は知識を有てば有つ程益々馬鹿[#「馬鹿」に傍点]として発達さえするのである。馬鹿というのは決してただの何物かの欠乏のことではなくて却って育ち行く或る生きた組織なのだ。丁度癌が一つの発達して行く活組織であるようにだ。
 でそうすれば、知識というもので以てすぐ様教養というものを割り切って了うことは出来ない相談ということが判る。処が世間ではそういう教養の観念が案外通用しているということは注目すべき事実なのである。――教養は教育[#「教育」に傍点]乃至学校教育[#「学校教育」に傍点]の結果だという通俗観念が実際あるのだ。この場合教育というのは他ならぬ知識のたたき込みという意味だから、教養は結局知識の堆積ということになるわけである。
 勿論教育乃至学校教育をこういう知識のたたき込みと考えることは、教育学的に云えば途方もなく間違った俗見なのだろうが、併し教育を素質の誘発とか人格の陶冶とかと考える教育学そのものが必ずしも卑俗でないものではないだけに、教育が知識の注入だという観念にも一応の真理はないとは云えない。知識の注入の欠乏は教育の欠乏を結果し、やがて夫が教養の欠乏を来すということは忘れられてはならぬ。ただ問題は教養のために必要な知識のコンビネーションの如何であり、教育に於ける必要な知識のセットの如何である。――処で高等教育理論は教育に於ける必要な知識のセットをビルドゥング[#「ビルドゥング」に傍点]と呼んでいる。学校とは区別された大学なるものの教育が、このビルドゥングだと、ドイツの伝統的な哲学的教育家や教育理論家や又一連の大学論者達は考える。ビルドゥングはもはやよく聞く例の人格[#「人格」に傍点]の陶冶というものとは同じでない。なぜならこの場合の人格という教育家的観念は、つまり知育とかいうものから区別された徳
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