ないし、又その場合でもない。今必要なのは、こうした卑俗に通俗的にしか把握されていない風俗という観念[#「観念」に傍点]を、さし当り必要なように訂正して、理論上意義のある一つのカテゴリーに仕立てておくことだ。そこでまず第一に、風俗が道徳[#「道徳」に傍点]に属するものである所以を注目しよう。
前に風俗が習俗・習慣・風習に直接するものだと云った。そして習俗が一方に於て制度を指すと共に、他方に於てその制度の習得感情をも指すことを述べた。例えば家族制度という習俗が、一方家族という制度を指すと共に、他方家族的感情や家族的倫理意識を指すことは、今更云わなくても判っていることだ。習俗とは歴史的伝統を負った処の社会的規範であり、その意味での人倫や道徳というものに他ならない。この判り切ったことが即ち又、風俗がまず第一に道徳的なものだということになるのである。
風俗は、社会のただの習慣や便宜や約束ではない、又単なる流行其の他の類でもない。単に世間が皆そうしているという事実だけではなくて、この事実が社会的強制力を持っており、そして道徳的倫理的権威と、更にそれを承認することによる安易快適感とを惹き起こしつつあるものが、風俗である。風俗にぞくする規定の代表的なものは、前にも云ったように社会に於ける性関係だが、事実はこの性風俗が最も端的な通常道徳の内容をなしていることを、注目しなければならぬ。風俗壊乱という一種の反社会的現象は、主に性風俗の破壊を指すことは云うまでもないので、これが社会風教上の大問題だと政治的道学者や風紀警察当局は考える。風俗は全く道徳的なものだ。
性風俗が可なりに衣服服飾と密接な関係のあるのは興味ある点だ。性別を社会的に表現するものは無論何よりも服装なのであるが、この服装風俗が極めて性的意義と共に道徳的意義に富んでいることを反省して見るがよい。奢侈・化粧・お洒落から始めて、お行儀や作法やゼントルマンシップや淑女振り等々から、家庭的儀式や支配権力の威儀や宗教的支配の荘厳にまで及ぶ、一貫した或るものがあるだろう。このように服装は性関係を道徳にまで連絡づける。アンデルセンの『裸の王様』を、こういう点から見て見ると、又特別の面白さがあるだろう。――でこうした一見末梢的な風俗たる衣裳さえが、一つ一つ道徳的重大さを持っていることは、今更事新しく説くまでもあるまい。
併しそれはそれでよいとして、一体風俗がぞくすると考えられたこの道徳なるものは何であるか。最も通俗的な規定としては、善し悪しを判定する標準のことか、又は善し悪しを決める場面のことだろう。これが通俗常識による道徳の観念であって、そこではつまり、出来るだけ早く簡単に善いか悪いかを決めることが目的になっている。処が或る事柄の善い悪いを決めることと、その事柄に就いての有効な(然り人生にとって有効な)批判的・科学的検討とは、殆んど全く別のことなのである。事柄の理論的研究と、その事柄の善悪の宣告とはまるで別だ。と云っても私は何も、理論や科学が超利害的であるとか又公平無私(?)で超党派的・超階級的なものだ、などというようなブルジョア科学論の一節を暗誦する心算で云っているのではない。例えば日本に特有な形態の人身売買制度(娘の身売りなど)をどんなに悪いことで不道徳だと宣告しても、それで少しもこの現実の風俗は善くはならないのだ。問題は善いか悪いかではなくして、如何にしてこの欠陥を救済するかというための理論的な研究なのだ。処が道徳は往々にして、正にこうした科学的検討そのものを省略するための唯一の手段として出馬するものだ。道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。
こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧ろ道徳のかかる観念自身[#「かかる観念自身」に傍点]が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる。――で、もし風俗の観念も、単にこうした意味での道徳の観念に接着するだけなら、夫は理論的に無用でナンセンスな困ったカテゴリーに終るだろう。
だが、道徳に就いての文学的観念[#「文学的観念」に傍点]ともいうべきものこそ、道徳現象に就いての論理的に(又広義に於て認識論的と云ってもよいが)有効な唯一のカテゴリーだろうと私は思う。普通の所謂「道徳」という観念はこれの前には解消して了う筈であるし、又「道徳」という観念によって指し示された所謂道徳なる
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