の額の実用価値如何に関係なく、いくらの香典でも、単にその精神上の意味ばかりではなくその物質上の意味が成立することが出来る。
この小僧さんの「真心」は相当正直に買っていいかも知れない。東郷元帥の国葬にお賽銭を上げた人間が少くなかったということだが、こうした「喜捨」に較べればずっと意味の透明な行為だ。
尤もお賽銭でも相手が東郷元帥の遺骸だから少し変に思われるまでで、東郷神社も沢山出来るというから、神様や仏様と見做したのだとすれば、之もそんなに不自然な寄付行為ではないかも知れない。――だがこの二つの場合でも香典やお賽銭にあまり物質的意義がないと考えられる範囲に於ては無意味であって、もし強いて之に精神的[#「精神的」に傍点]な意味をつけるならば、それは先に云った府立一中の生徒の寄付行為と同じ精神上の意味のものに帰着する他ないだろう。ただ違う点は、一中の教育家先生達の代りに、社会の非常時道徳の強制力が、国防精神教育を引き受けているという点だけである。
一中の先生の教育行為や非常時道徳の強制力が行う教育行為には、また学校教育とか社会的強制とかいう建前があって、たとえ嘘にしろ嘘だという確信が伴
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