遇の相違があるのは、当然だと一応私はそう思うのであるが、併し、それは例の滝川教授の説の一部を支持することになるわけだから、恐らく間違っているのだろう。
 よく考えて見ると、実際に、この考えは間違っているらしい。その証拠には同じく政治上の確信犯だと云っても、例えば之が左翼の諸事件の主人公達だったとすると、「社会の通念」から云って、収賄罪の主人公達よりも、もっともっと社会的に虐待されることは当然なことなのである。「人格の陶冶」の足りない人間が、一等みじめな眼に合わされねばならぬということは、之又××の××たる所以と云わねばならぬ。
 今度の五・一五事件の発表を見ていると、とにかくファッショの「××」×はうらやましい程幸福である。少くとも彼等は、こんなに同情に富んだ根本的には出来栄えの至極良好な社会の手によって、「処罰」されるのに、決して悪い気持はしないだろうと思う。
 だがこう云って、何か判ったように説き出したのではあるが、実はどうも判らないことばかりなのである。五・一五事件の大体の道筋は、世間の誰もが既に知っていることで、今回はそれが多少具体的に整理されて紙上で発表された迄なのであるが、
前へ 次へ
全402ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング