る。そうなら本部が庭球のために(?)佐藤選手を犠牲にして※[#「りっしんべん+単」、第4水準2−12−55]らなかったものと五十歩百歩で、いずれもスポーツマンシップに相応した立派なマネージャーシップ[#「マネージャーシップ」に傍点](?)だとは云い兼ねる。
 だが、今日の所謂スポーツマンシップというものが、実は一向判っていない代物のようだ。ギリシアではスポーツは多分神々に見せて娯しませる儀式としての演技から始まったのだろうが、ローマ時代には支配階級の娯楽のためにスポーツ専門の奴隷が出来ていた。多少軍事的な意味や社会衛生的な目的もあったかも知れないが、どの場合にも主に、神様か人間かの区別があるだけで、とに角偉い存在の審美的な又は嗜虐的な娯楽のために、スポーツが存在したのだ。今日では神様はスポーツを好くか好かないかは知らないが、とに角明治神宮外苑などでスポーツを見る者は、時代の支配者どころではなく、中間的な存在だというサラリーマンが大部分である。だから支配関係は一見寧ろ逆で、英雄はスポーツマンの方であって、この英雄を崇拝するものの方がサラリーマンのファン達だというわけになっている。(相撲は
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