者がすでに充分知っている処だろう。知識と経験との乏しい私などが、とやかく云うべき筋合ではない。私は、札つき[#「札つき」に傍点]の「左翼」の人達が之に対してどういう批判を下すかを、普通の印刷物の上で見ることの出来ないことを遺憾に思っているだけだ。
併しこの「同志に告ぐる書」を読んだありのままの感想を云うならば、どこにも別に「ファッショになれ」という言葉は書いてないことが、やや意外だったと云わねばならぬ。新聞の紹介を読んで、両「巨頭」がスッカリ、ファッショになって了ったものと思い込んでいた私は、だからナーンダこんなことかと思ったのである。尤も例のファッショと間違いられそうな諸根本テーゼと共産主義との関係は殆んど説明されていないから、一見共産主義とは関係のないことを論じているように見えるが、併し元来之は「同志に告げる書」なのだから、同志に向って今更共産主義を説明する必要はなかろうではないか。
問題はだがそこにあるのである。例えば私は、云うまでもなく如何なる意味に於ても彼等の「同志」などではない。それだのに私は「同志に告ぐる書」を読まざるを得ない。それが唯一の福音だったからである。だから私は、言わば雑誌編集者の紹介によって、両巨頭から同志としての待遇を受けるの光栄を有たされたわけなのである。而も大事なことに之は何も私だけの特権ではない、幾万という雑誌読者が皆そうした光栄に浴するのである、否幾百万という新聞読者までが、この光栄の結論的な「摘要」の託宣にあずかるのである。――だが一体、ファッシズムの怒濤のおかげで、今日ロクロク物も云えず息もつけずにいるような吾々娑婆の俗物達と、獄内の被告同志とを、一列に取り扱おうとするのが元来少し無理ではないだろうか。
「同志に告ぐる書」は、同志によって批難[#「批難」に傍点]されるだろう場合ばかりに気を配っているようだが、同志の待遇を受ける光栄を有つだろう「世間」から喝采[#「喝采」に傍点]を博するだろうことに就いては、一向自信を持っていないらしく見える――併し世間の心ある識者達は、いずれも之に熱烈な喝采を送るのを惜んでいない、という吉報を、修道院のように静寂な獄内に坐している巨頭達の耳へ、早く入れてやりたいものである。――満州問題の成功や近くは円価の反騰、農村の「好況」などでこの頃益々気を好くしている日本の世間であるから、(ロンドンの「ブルジョア」経済会議のダラしなさを見ろ!「ブルジョア」軍縮会議が何だ!)この「転向」によってすっかり悦に入っているものは、決して裁判長や教悔師ばかりではない。
土堤評によると、党員の相当上の方へ行くと、この転向に追従する人間も案外少くないかも知れないということである。だが又、当局が皮算用している程に痛快な大動揺も、なさそうだという噂さである。前に云った山川均氏や青野季吉氏などは、それ見たことかと云った調子で、軽くひねって片づけているような始末である。
大衆は案外、英雄崇拝[#「英雄崇拝」に傍点]をしないもののように見える。そうだとすると、「巨頭巨頭」という招牌もそれ程効き目がないかも知れない。この間ある有名な左翼出版屋が、ファッショに転向したそうである。ナチスの焚書に倣って、日比谷公園で過去の出版物を焚刑に処するそうだという噂まで製造された位いである。だが之は「巨頭」の転向より無論前だから、原因は無論「巨頭」の転向などにあり得ないことは云うまでもない。原因は外にあるのだ。「巨頭」だってこの原因には意識的無意識的に動かされないとも限らない。
二、没落
転向問題で以て花見のように陽気になっている世間に、更に景気をそえるために、又吉報が現れた。河上肇博士が「没落」したというのである。河上博士自身にとっては没落するかしないかは大問題だが、社会的結果に就いて云えばあまり大して問題ではない筈だと思うのだが、世間が之を以て左翼の崩壊の吉兆だと見たがる処に、博士の没落の社会的な意味があるのだ。もしそうならば之は単に一個の河上博士の個人的な大問題ばかりではないことになりそうである。抜かりのない世間は事実、之を例の転向問題と結び付けてはやし立てている。――だが世間は何と浅墓なオッチョコチョイに充ちていることだろう。
あくまで率直な博士は、自分が今日、到底共産主義者としての、即ちマルクシストとしての、実践活動に耐え得ないことを有態に告白し、マルクス主義を奉じながらなお且つマルクス主義者[#「主義者」に傍点]ではあり得ないことを、独語している。共産主義者としての自らを葬り、共産主義的学徒として資本論の飜訳を完成しようと告げているのである。その声や誠に悲しく、その心情のまことに切なるものがあると云わねばならぬ。
だが博士は、年を取ったことや身体が弱ったことや、又恐らく自
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