総長の名を騙ったのを、ウッカリ本物と思い込んで了ったのではないか、と。それならお鯉さんは少くとも嘘つきの悪名だけは雪げるわけである。(一九三四・四)
[#地から1字上げ](一九三四・五)
[#改段]


 失望したハチ公

   一、失望したハチ公

 雨の日も風の日も、死んだ主人にお伴をした習慣のままに、渋谷の駅頭に現われるハチ公である。彼は今では全くの宿なしで、大分老耗したルンペンだったが、外に行く処は別にないし、それに習慣というものは恐ろしいもので、周囲の事情がどう変ろうとも、渋谷駅の方に足が向く古い癖は決して直ろうとはしない。だが彼はこの牢として抜くべからざる奴隷的な陋習のおかげで、渋谷の駅頭ではすっかり縄張りが出来上り、顔なじみも段々殖えて、自分のルンペン振りもどうやら職業化して来たことを感じるようになったのである。
 初めは嫌な顔をして見せた駅夫達も、彼の「顔」が相当売れ始めたのを知ると、時々お世辞などを云って接近しようと企てる者さえ出て来る。特に彼が駅長の注目を惹くようになってからは、彼は云わば駅に於ける公民権を得たようなもので、前よりも一層有利な条件で以て自由に自己宣伝も出来るようになった。力めて栄養も取るように心掛け始めたので、見目形も少しは好くなって、それだけ益々有利に事情は展開するようになって来たのである。
 で遂に彼は忠義者のハチ公として、名高いハチ公として、売り出すことになって了った。実は自分でも初めはこう人気が出るとは思わなかったのに、世間は案外なもので、彼は今では押しも押されもしない街の名士になり上って了った。それで彼の処にはこの間から、新聞に書いてやろうの、写真を呉れのと、ジャーナリストが盛んに訪問して来る。俺も偉くなったものだな、と彼は何かくすぐったいような嬉しさを感じるのである。もしも主人が死ななかったら、俺もあんなに落ぶれずに済んだわけだが、併しその代りにこんなに偉くなる機会も掴めなかっただろうから、何が幸になるか判らないものだ、とつくづく考えられる日が幾日も続いた。
 処が四月の二十一日である。彼は自分が何とも知れぬ気味の悪い紅白の布を首から背中にかけられているのを発見して、スッカリ不愉快になって了った。自分の好まない衣類を着せられる程、自分を惨めに感じることはないので、彼はひどく不安そうにウロウロしないではいられなくなった。
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