てデモクラットとしての積極性を有つわけで、それが現代日本の科学論の正面の性格をなしているだろう。だがこうした現下の日本の所謂「自由主義」の背後に、実際にどういう民衆的意図が蔵されているかは、一般的に検討されねばならぬことだが、少なくとも科学論に於けるこの自由主義的特色は、一部分は唯物論への意向を含んだものであり、一部分は唯物論に対する主観的な反対を意図したものであり、他の一部分は、率直に唯物論に立脚するものであって、之等のものに対立する対極としての文化ファッショ的科学論議(国体明徴的歴史科学論や民族主義的社会科学論から、主観論的自然科学論――之は橋田邦彦博士から田辺元博士の所説の一部までも含む――に至るまで)と、一部分交錯し他の部分に於て分極していることにある、と云うことが出来るだろう。――そういう意味に於て、唯物論を、意識的無意識的に、問題の枢軸としているということを、吾々は見落してはならないのである。之が今日の科学論に、あれ程の社会的リアリティーと時局的重大性とを与えている処のものだ。
さて、今日の科学論は、かつての世界大戦直後に日本で一時行なわれたあの「科学論」のような、ああいう性質に止まるものではないし、又ああいう系統の単なる発展と見ることも出来ない。今日の科学論は、世界観や範疇や方法を中心とする普通の意味での認識論だけに制限されているのではない。それは科学政策・科学教育・科学精神・と云ったような他の一連の新しい現実問題をも同時に課せられている。而もこの二群の問題の間に、科学論としての統一が与えられているかというと、多くの場合そうではない。二群のものは一見別な問題のようにさえ見做されているのだ。二つを関係づけるにしても、ごく部分的なひっかかりから、わずかに関係をつけることに終始している場合が大方である。
実際ここには欠落した問題の環があるのである。と云うのは、終局の統一的な視点は別としても、前に云ったように、さし当り例えば、アカデミーの機能とジャーナリズムとの連関さえが科学論的な意味に於てはまだ解答されていないのだ。それから科学的啓蒙や科学大衆性の問題、つまり科学の階級性に発する諸問題は、何か忘れられているようなのだ。だがこの環を抜きにして、恐らく科学論の充分な押し出しは不可能である。つまり科学の階級性というような問題を、もう一遍真面目に取り出して見るの
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