的な積極性に於て理解された快楽、そういう異例な快楽にしか過ぎない。だから娯楽を快楽に還元することが誤りであるばかりでなく、之を快楽に包摂させることも亦誤りだ。
 快楽の一種に逸楽とでも云うべきものがある。之とても娯楽と一つではない。逸楽は或る逃避的な快楽を意味する。逃避する世界が深山幽谷であろうと市井の真只中であろうと、要するに社会的関心から個人的関心の内部へ逃避することだ。天下の逸民とは、自分の方も社会に対して何の要求も持ち出さぬ代りに、社会の方でも自分をソットしておいて欲しい、とする処の人間のことで、要するに或る特権を黙許された人間のことだ。民衆のことではないのである。娯楽は勿論難行道であり得る筈がないから、逸楽とどこか似た点もあるのであるが、併し娯楽の易行道は決して社会の建設的コースから脱線したものであってはならぬ。処でこのコースから逸脱する快楽こそ、所謂逸楽だったわけだ。

 では娯楽そのものは何か。大体之を二つの特徴から整理して行くことが出来ると思う。第一は或る社会性であり、第二は或る積極性と云っていい。娯楽の有つ社会性の特色は、それが多くの場合、個人の単独な享受ではなくて必
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