ないらしい。中学校の物理学は割合少数の物理法則を教え込む、高等学校ではもう少し沢山の物理法則を之につけ足す。或いは前者では精々代数乃至三角を使った公式を覚え、後者では微分方程式を使った公式を覚える、と云ったような次第である。この現状には恐らく誤謬はないのだろうが、併しそこから出て来る唯一の常識・科学教育に於ける教育なるものに就いての常識は、要するに既成の科学的成果の若干を覚え込ませるという事だ。それが科学的知識というもので、夫が科学的素養にもなり教養にもなると常識は考えているようである。
歴史や地理に較べて、中学の物理学などは所謂暗記物ではないとされている。でここでは詰め込み主義は大して信用されていない。ではその代りに何があるのか、推理か、それとも他の何かか。だが科学教育をそういう心的能力という形式的観念から問題にすることは間違ってもいるし流行ってもいないだろう。だがしかし、では中学の物理学は何主義で教えられるか。
本当を云うと云わば一種の歴史主義(相対主義とは無関係とする)に基くべきものだ。力学の三法則は如何にして発見され如何にして整備されたか、そして夫は誰によってどういう問題を解くべく求められたか。この物理学の主な夫々のテーゼの有っている歴史的な苦心を抜きにして、いきなり出来上ったものをもち出されたら、記憶しようにも合理的な根拠を見出し得ないだろう。勢い暗誦というような無理な形になる。一体暗誦というものはヴェルギリウスかホラティウスの文章でも記憶する時の手段であって、文献学的なものであり、自然科学の精神とは一応別な系統のものだ。
記憶ということは素養の能力として何より大切なもので、これに就いての認識論的又は教育理論的注目は割合薄いのではないかと考えられる。数学さえ本当の意味では記憶によるのだ。理解の能力と記憶の能力とは平行するのが普通で、理解したものは記憶出来るし、記憶出来たものは理解したものに限るのだ。本当の記憶にはだから、理性に対するクーデーターである暗記などとは異って、合理的な根拠が、心理的で且つ論理的な根拠が、ある。夫が歴史的な来歴・科学発達の苦心の跡、によって与えられる。単に之は記憶の合理的な根拠であるばかりではない。推理・予想・及び科学的なファンタジー(所謂オリジナリティーはここに基く)さえの、合理的な根拠だ。吾々が与えられている物理法則がどの程度に確かなものか、どういう異論に出会いつつあるか、つまりどの程度の疑問の余地のあるものか、そういうことを抜きにされたただの教材では、棒暗記の他はなくて、それから何等の想像を産むことも出来ぬ(この想像力は探検の精神に近いだろう。探検も亦一つの科学的精神の発露である。地理や博物や歴史の興味がここに関係している)。
で、物理学なら物理学の現下の諸テーゼが、歴史的にどういう来歴があって今日に至っているか(例えば一体純実験的に出されたものか理論的に導かれたものか)、今日どういう時代的条件におかれているか、そして今後どういう発達の余地を見出しそうか、という知識が物理学の素養[#「素養」に傍点]の内容になるべきなのだ。この歴史的[#「歴史的」に傍点]認識は同時にこの諸テーゼの技術的社会的[#「技術的社会的」に傍点]認識にも直接している。今日の社会に於ける技術上の実際問題にどういう関係があるか(直接なければないということが又一つの重大な規定になろう)が判って、初めてその真理性が判る[#「判る」に傍点]のである。「実際教育」とか「実業教育」とか云うが、夫がもしこういうことでなければただの政治屋的片言に過ぎない。だがこうなって来ると、今日の普通教育に於ける科学教育から見れば、まるで夢のようなものだろう。だが之が夢である限り、素養教育・教養としての科学教育の、原理はどこにも見出せないだろう。依然として、専門教育の師範教育的縮小逓減再生産に止まる他ないだろう。
この現状で一等悪いことは、生徒が科学に就いて何等の疑問を持たぬ、ということだ。と云うのは事実教科書は、科学が何か全く完成したかのような風に書いている。科学は何等の隙もない完璧なものになったように報告されている。従って之を学ぶ者は本当の意味での問題[#「問題」に傍点]を見出すことが出来ない。生徒にとって問題と云えば試験問題でしかなく、本当の問題は封じられている。今日の生徒の大多数は自然科学の学課についての問題と云えば、試験問題だと思っている。処が試験問題というものはすでに解決ずみのもので、実は問題でも何でもないのだ。之は自然を検討する問題ではなく単に生徒を検討する浅墓な教育手段に過ぎぬ。科学を学んで、科学の「問題」を知らぬと云うことは、恐るべき冒涜だ。自然と人類とに対する恐るべき冒涜なのだ。本当に問題を持たないから、稚拙ながらも
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