が例えば寺田寅彦博士の物理学と随筆とを見よ)。真理の組織的な探究が必要なのだ(グルモンの評論などを見ると、科学的精神なるものがどれ程普遍的なものであるかが判ろう。而も之はほんの一例に過ぎないのである)。
 自然科学の専門家が、一歩その専門外に出る時、全く非科学的になり勝ちだということは、方々で指摘されていることである。自然科学の専門家は、職業的には専門家であるにも拘らず、科学的精神という一個の人間認識の遂行者としては必ずしも老練家でないことを、之は告げている。専門的科学教育の優等生ではあっても、教養としての科学教育の落第生に他ならぬというわけだ。いや専門の科学に就いてさえ、今日専門科学者の皆が皆まで徹底的に科学的であるとは云えないようだ。つまり中学生の或る者が偶々物理や化学が好きだというのと同じ内容が、彼等が専門の科学者であるということの人間的実質だ、という場合さえあるのである。
 科学的精神というものはごく一般的なもので、決して科学者の専売ではない。ただ科学教育とは、この科学的精神を、所謂「科学」に就いて誘導開発するものの謂いだというのである。従って所謂科学教育[#「科学教育」に傍点](普通教育としてのだ)が生きた意味を有つなら、夫は必然に、一切の社会・歴史・文化・の問題に就いての考察にもその科学的な態度を浸潤させ得るはずなのだ。処で実際はそうは行っていない。日本人程科学的精神を教育されていない文明人はない様だ。科学は西欧の精神であるなどと云い出す盲蛇におじぬ文化人が充ち満ちている。日本では生活に就いての科学的認識が極めて薄弱なのである。と同時に、他方日本では科学が文化的な玩具か生活のデコレーションのようなものになっている。だから「知育偏重」反対論などを耳にしても、驚くには値いしない。科学[#「科学」に傍点]というものの意味が、殆んど全く理解されていないのだから。
 でここに科学教育の使命の重大さが、露骨に現われて来るだろう。この場合科学教育をただの「科学の教育」だなどと見ることは、事柄をゴマ化すことだ。科学的精神[#「科学的精神」に傍点]の教育こそが科学教育の目標でなければならぬのである。――だが一体その科学的精神とは何なのか、と問われるだろう。併し限定は極めて簡単で事足りる。事物の歴史的転化に就いての理解が夫である。事物そのものは歴史的に転化して来たし又転化しつつある、之を因果的に説明し、之に合理的な根拠を与え、之を検証し、そして之を初めて実際的に(実地に実践的に)解釈する精神のことである。尤もクロード・ベルナールの生物学を文学的に直訳したゾラなどは、恐らく多少拙劣な科学的精神だろうが。
 教養や常識は、この精神の存在に基いて初めて成り立つことが出来る。そして教育や啓蒙も亦、この精神を中心にして初めて意義を有つ。その証拠に、この科学的精神の存在を差引いて考えて見ると好い。その時教養とは尤もらしいが極めて退屈な文化人的ポーズに過ぎなくなるし、常識はただの無知と同じ事になる。教育や啓蒙は単に先生振ることになる。処で今先生振る代りに神聖な専門家[#「専門家」に傍点]を気取るとする、夫は科学的精神を有たぬ場合の専門家のカリケチュアに他ならないだろう。もし専門的科学教育がこういう形の専門科学者を造る事であるなら、専門的であるという事は片輪であるということになる他ない。事実そういう皮肉な通念もあるのだ。



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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