との対立、其の他は之に他なるまい。そして博士はこの相矛盾した二つのモメントを統一するものを、行為なるものに見るらしい。そして云う、歴史は行為によって媒介されるが故に、この二つの契機を総合するものは歴史であると。つまり科学的精神はこの道行きによって、歴史的精神に他ならぬ、という結果になる。
 私も亦科学的精神を歴史的精神と考える。ただそのために必ずしも行為というカテゴリーを回わり道する必要はないと思う。科学的精神は勿論吾々の生活・行為の精神でなければならぬ。だが行為という哲学的部分品を通らなければ科学的精神が歴史的精神であることが明らかにならぬとは考えない。科学的精神は実証的精神だ。事物の現実のデータから出発する精神だ。処がこの実証的な現実事物が実在するということは、時間的に一定の経過法則を持って在ることを指す他ないのである。之が一般に物の歴史[#「歴史」に傍点]ということだ。だから実証的精神は、必然的に歴史的精神を認めずにいられない。だがただ単に之は時間的な精神なのではない。ただの時間や時間の中味はまだ歴史とは云えない。歴史とは時間経過の法則のことである。事物の時間経過に於ける構造と秩序というものが、初めて歴史をなす。歴史はそうした事物自身のロジックなのだ。
 もし合理的精神、論理的精神、本当の客観的な推理(ヘーゲルは推論こそ論理の本質だと考えているから)というものがあるなら、それは合理主義的なアプリオリや生得観念の内にあるのではなくて、この歴史的経過の構造秩序から取り出されたものの内にこそなければならぬ筈だ。でこうした意義に於ける歴史的精神、之が科学的精神であると、一応云っておいていいだろう。小倉金之助博士は、実証的精神と歴史的精神とを以て、科学的精神の説明を試みたように記憶する。だが二つはただ併立させられただけでは恐らくお互いに満足しないだろう。
 処で科学的精神を現在の問題として具体的に考察しようとすると、現代に於ける反科学的精神、非科学的精神の側から、まず見てかからなければならぬ。時局の問題として、問題はそういう次第で提出されているからだ。私はこの側面については、少し前から随分沢山書いたように思う。その要点は大体三つの公式に纏めることが出来よう。第一は文学主義(科学的カテゴリーから全く独立に文学的通俗表象によって分析を敢えてする思考法――文学的な評論や放談や文化主義的形而上学の文章に著しい)、第二は文献学主義(学術の名の下に文献訓詁の成果をすぐ様思想の典拠とする一切の博学又は牽強付会の方法――アカデミック・フールに著しい)、第三は教学主義(文化を倫理主義的に制限し教典を以て教化に資することを学問と心得るもの――東洋的僧侶主義や先生的文化観念に特有)である。
 この三つの反科学的、非科学的、精神が夫々の形態に於てではあるが、併し共通の特色とする処は、実証的精神への完全な無能力である。文献による実証は文献学主義や教学主義の得意とする処のようだが、この実証は決して実験的検証的なある実証的精神のものではない。実証的精神ではなくて解釈的精神なのだ。文化的形而上学が、実証的な現実感に薄いことは云うまでもない。之は現実の秩序と天上の可能界の秩序とを混同し、之は後者を以て前者の代理が出来ると考える。解釈の世界を以て現実の実在界の代りにしようとする点で、前の二つと同じ道行きなのだ。
 実証的精神が無能力であるから、正当な歴史的精神は不可能となる。却って倒錯した歴史観を産むものが、文献学主義であり教学主義なのだ。国粋的、封建的、日本主義の社会理論の多くは、之だ。こうしたものが合理的精神を欠いているということは、全くこの実証的精神の欠如、従って又本当の歴史的認識の無能から来る不可避な結果に他ならない。
 さて科学的精神に於けるこの生命物質に相当する実証的精神こそ、技術的精神と呼ばれるべきものである。実証的精神は、実験検証の精神だ。だがここでも吾々は之をラボラトリー的規模に於て理解するに止まってはならぬ。之を社会的生産機構のスケールに於て理解しなければならぬ。すると実験は産業と社会的に一つづきのものであることに気がつく。之は人間的社会実践の原型なのだ(社会人の政治的活動としての実践も亦勿論この系列にぞくする)。之はだから産業の精神だ。だから之は技術的精神になるわけなのである。
 真実な理論的思考は、社会的な現実に於て実践、検証、され得ねばならぬ。そうした意味での実験によって保証されなければ、リアリスティックな真実ではない。現実性がない。そういう現実性があって初めて、その真実は実践的な価値があるということになる。之は実証的精神――予見するために見る――のモットーにぞくする。だが、こういう思考を秩序立てるための用具としての論理的諸範疇は、又それ相応の用意を必要とするのである。社会は実証、検証、に適するようなカテゴリーの組織が必要だ。それは従って、産業技術、生産技術、と連帯関係に置かれているカテゴリーでなくてはならぬ。形而上学的な又解釈学的な、文献学主義的、文学主義的、教学的、等々のカテゴリーでは、社会の一物をも、現実には処理出来ないものである。或る意味に於ける物質的処理(世界のただのあれ之の説明ではない)が出来ないのでは、人類の生活のために存する論理ではない。処でこうしたカテゴリーは云わば技術的カテゴリーだ。そしてこの論理、この合理的精神、が取りも直さず技術的精神なのだ。思想、文化、に於ける技術的精神の絶対的な要請は、つまり思想、文化というイデオロギーが社会の生産機構に基く上部構造としてしか正当に把握出来ないという根本認識の、論理学的な認識論的な発展の他のものではない。科学的精神について、この根本的な側面を説明しようとすれば、それが取りも直さず、技術的精神によって、文化と思想とは初めて産業と物質的社会的生産とに結び合わされる。社会に於ける産業と全く独立した文化や思想ほど、客観的に見てみじめなものはない。それが惨めに見えないものは、世界の歴史を知らぬ者であり、思想の本当の圧力というものを経験したことのない者だ。――近代思想が、みずから認めると否とに拘らず、如何に圧倒的に近代産業によって規定されているかは、すでに述べた。産業は産業、思想は思想、などと云う者は、近代の思想家であることが出来ない。
 で私は、もし科学的精神とは何かを一口で説明せよと云われるならば、夫は技術的精神であると答える。社会に於ける物質的生産技術への媒介によって、そのカテゴリーを整備し、その推論と検証とを怠らぬものが、文化を一貫する、そして近代文化を特色づける、動かすべからざる精神であると、私は答える。
 最後に併し、技術的精神というその技術とは何か、という疑問が残る。私が技術と呼ぶのは、技能や手法や又芸術や術のことではなくて、「生産技術」のことだ。勿論これ以外のものを技術という通俗語が意味してはならぬと云うのではない。だがプロパーな意味に於ける技術が生産技術を指すのだという常識を忘れると、始末におえない混乱が生じて来る。この点については私の旧著『技術の哲学』で触れてたことがあるから省く。
 生産技術とはでは何か、に就いても、私は或る見解を固執する。労働手段の体系が技術だという通説はそのまま採用することが出来ぬ。労働手段は労働手段である、それで立派に判る言葉ではないか。之をワザワザ技術という通俗語におきかえる必要はどこにあるか。技術と云う以上は、ただの労働手段の体系だと云っては片づかない筈だ。
 雑誌『科学主義工業』一九三七年九月号所載の三枝博音氏の「技術学のグレンツ・ゲビイト」は、その主旨に於て共感を禁じ得ない。私に云わせると、つまり近代の哲学は他ならぬ技術的精神によって貫かれねばならぬという主張であろう。ただ氏は技術的精神と云わずに、もっとも拡張された意味に於ける技術学と呼んだものと私は理解する。だが技術学が哲学に代る、と云うらしいその言葉は、やや云い過ぎであったようだ。近代精神は技術的精神でなくてはならぬ、と云った方が、もっと正確で又穏当ではなかっただろうか。
[#地付き](一九三七・九)



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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