能によって決まって来るということは、当然である。その逆でないことは常識だ。従来の美学は之を乗具[#「乗具」に傍点](例えばT・フィッシャー)と呼んで来ている。言語(又文筆)を乗具とする認識は、文学だ。之と比較して、映画というメカニズムを乗具とする認識が所謂映画なのである。
 で私は、映画理論の根本問題は、映画という文化史現象や芸術現象等々に関するものとしてよりも先に、まず認識論的なものでなければならぬと考える。映画の芸術性も認識[#「認識」に傍点]の様式として初めて、映画固有の形の下に捉えられるだろう。根本問題は、映画が芸術であるかないかとか、又如何なる映画が芸術であるか、というようなことより先に、映画という認識手段が、人間的認識の歴史に於て如何なる役割を果しているか、ということの現実的な分析にあるだろう。単に映画には映画特有の芸術性や又一般の機能があるからそれを尊重せねばならぬ、と云うだけではないのだ。映画が人類の進歩的な認識機能であるということの、認識理論上の充分な自覚が必要だというのである。――映画が芸術として又(実は同じことに帰着するが)娯楽として通俗に理解されていることは、勿論健全なことだ。だがそれが映画理論の原則の出発点となってはならぬ。吾々の問題は、一般に芸術や娯楽というものの認識理論上の意義を的確に把握することになくてはならぬ。映画はそのための最も有望な対象なのだ。
 併し実は、映画の機能は大体に於てすでに広く知られている。抑々の処は、今更事新しく私が説明するまでもない。かつて私は多少理論的に之を説明しようとした。そこでは風俗との結合が特徴あるものと見られた。映画の物理的機能が風俗というような社会的要因と直接結びついていることを認識理論的に指摘した。だがそれはそれとして、他の方向に於て認識理論上興味のあるのは、映画に於ける「アブストラクション」の作用であろう。
 アブストラクションは一切の認識に於ける根本作用の一つである。科学が之に基くことはあまりに知られすぎているために誤解を招いてさえいる位いだ。と云うのは、科学は芸術とは異って抽象的である、と云った風な俗説を産んでいる。だが芸術こそ又最も抽象的なものだ。之なくしては文芸に於けるスタイルなどは無意味になるし、絵画などは成立しない。ただその抽象=アブストラクションの相違が、科学と芸術の区別、芸術の内に於ける諸ジャンルの区別を与える。従って吾々は諸芸術の区別を検討する一つの尺度として、このアブストラクションを検討してかかることが必要なわけだ。
 併し単に諸文化様式(認識様式)の区別にとって必要なばかりではない、それというのも、認識機能・認識手段・の内にアブストラクションの作用の地盤があるからのことだ。認識機能乃至認識手段としての映画(文化様式の一つとしての所謂「映画」では必ずしもない)にとっては、又特有なアブストラクションがなくてはならぬ。恐らく之が、映画と他の認識手段とを連関づける媒介ともなる。それについては何れ。
(一九三七・一二)[#地から1字上げ]



底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
2001年8月23日公開
青空文庫作成ファイル:
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