としては知ることが出来ない。では、とカント批判者は云うのである、何故知り得ない物なるものを想定することが出来たか、又その必要がどこにあったか。物そのものが知り得ないということは、物そのものという観念がこの哲学体系にとって無用であり又有害であることを示すものに他ならない。物自体の観念はカント哲学の一貫した立場から清算消去されるべきものであり、それの代りに「対象X」でもいい、「ノウメナ」でもいい、又は「認識の限界」という限界概念(H・コーエンによる)でもいい、そうした何等か主観性・観念性を根拠とした概念を持って来るべきだ、というのである*。
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* カント哲学に対する各種の批判の中心は、物自体の観念を如何に片づけるかということに集中すると云ってもいい。この問題については山ほどの文献を挙げることが出来るだろう。
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 併し仮にそうだとしても、カント自身がこれ程露骨で明白な矛盾(?)をどうして犯す気になったのだろうか。『純粋理性批判』の物自体を想定した最初の部分を書いた時と、後の認識乃至知識の観念性・先験性の部分を書いた時との間に
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