所謂実証主義の多くのものや「科学主義」其の他は、この機械論の特別な場合だった)。
之は科学と哲学とを殆んど全く無条件に一致させることによって、両者を結局、科学の側に還元・解消して了う場合であるが、夫とは反対に、同じく両者を一致させることによって終局に於て両者を哲学に吸収して了う場合もある。ヘーゲルは当時の諸実証科学を目して、まだ悟性的な段階に足踏みしている立場のものと考えた。と云うのは、諸範疇の絶対的対立と固定化とになやむ形式的論理に終始するものだと見た。そこで彼は『哲学的諸科学のエンサイクロペディー』に於て、一切の科学を弁証法的な、乃至より正確に云えば思弁的[#「思弁的」に傍点]な、体系の夫々の一部として吸収することに成功したように見えたのである。ただヘーゲルはその卓越した洞察にも拘らず、その思弁的な解釈哲学式の弁証法に信頼していたために、科学の弁証法的救済も、実証科学それ自身の下からの発達とは独立な、固定したプランに終って了ったのであった。実証科学は、それ自身の歴史的発達の途上に於てこそ、その機械的な悟性的な形式主義的立脚点の矛盾にも気付き、弁証法的な段階にまで意識的に洗練される
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