れから本来のアリストテレスへと、古典復古するわけであり、一般に学芸は神と僧侶領主階級との文化の代りに、自由な人間的文化へと復興するわけである。――処が古典ギリシアそのものにあっても、必ずしも実験(乃至観察)の重大性をハッキリと示すに足るだけの条件は具わっていなかった。観察や実験を少なからず用いるということは、それだけではまだ実験の本当の面目を明示し自覚したことにはならぬ。例えばアリストテレスの『物理学』(フュジカ)は、直接には何等の実験に基いたものでもなく、又直接な自然観察に立脚したものでさえもない。ディルタイなどが強調しているように、之は単に自然の解釈[#「解釈」に傍点]であって、自然の事実に立つ実験的な、従って又因果的な、説明[#「説明」に傍点]ではない。だからこういうものは正当な意味では、近代自然科学から極めて遠いものと云わねばならぬ。彼の動物学的理論になれば観察や実験は大いに利用されているのだが、之は遺憾ながらアリストテレス的学問法の代表的な部分ではなかった。
実験又従ってその一契機としての観察の、不可避的に重大な意義を知るようになったのは、何と云っても、だから近世であり、近
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