で今社会科学が真理を有つためには、それと内部的に結合すべき又は現に結合している哲学は、ブルジョア観念論であることは出来ず、正に唯物論でなくてはならぬ、ということになる。実際上の関係から云ってそうなのである。
 この実際上の関係は併し、云うまでもなく理論上の根拠を有っている。そしてそこに問題の鍵が横たわっている。――一体なぜ現代唯物論だけがその学問上の単一性と唯一性とを保証されているのか。それはその体系の動力のメカニズムである範疇組織[#「範疇組織」に傍点]が有っている特質から来ることである。しばらく夫を見よう。

 哲学は一般に方法[#「方法」に傍点]と体系[#「体系」に傍点]とに区別される。この区別には異論はないが、併し組織し体系づけるためでない方法はあり得ないし、方法なしに出来上った組織、体系もない。して見れば二つは同じ過程を指す二つの言葉である他はない。哲学の生命はこの方法乃至[#「乃至」に傍点]体系に存するのである。今この方法を普通に論理[#「論理」に傍点](方法機関――オルガノン)と云い、体系を範疇組織[#「範疇組織」に傍点]と云っていることを思い起こす必要がある。つまり論理即ち範疇組織が、哲学の方法であり体系であり、哲学の真髄なのである。かくて一般に哲学の相違は、その体系の相違に、その方法の相違に、その論理即ち範疇組織の相違に、原因する。
 範疇とは元来根本概念のことであり、従って一応は根本観念のことだから、その限りでは全く主観の任意か自由かによって左右され得るわけである。従って範疇組織も、一応任意な体系に組織される自由を有ってはいる。ここに一切の観念的哲学の殆んど無政府的な乱立を結果する原因が潜んでいる。如何なる哲学を採用するかは、その人が如何なる人となりであるかによるのだ、と代表的なドイツ式主観的観念論者、フィヒテなどは、断言している。
 だが他方範疇は実は事物そのものの性質を抽象・要約・普遍化したものであればこそ、その存在理由を有っているのだ。概念とは実はただの観念ではなくて、事物を把握するに適した限りの観念のことだった。そうすればこの根本概念の相互の間の必然性によって結びついて出来上った範疇組織も亦、決してそんなに勝手に主観的な必要だけで出来上ったものではあり得ない筈だ。従ってこの範疇組織がそれ程無政府的な乱立をするのは、その組織内にどこか範疇組
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