w的な操作なのである。それ故人々はすぐ様之が研究の方法様式[#「方法様式」に傍点]だと考えたがる。だがここには様式と操作=手段との混同がある。そしてこの混同には理由がある。例えば実験は確かに単なる研究手段=操作である、だが夫と同時に、それは一定の研究様式内に於てはその研究様式の一内容としても機能するからである*。併し研究手段[#「研究手段」に傍点]=操作[#「操作」に傍点]は、夫が研究様式[#「研究様式」に傍点]という統一体の具体的な一内容として定着される時初めて、研究様式、方法の資格を(恐らく部分的に)獲得するのである。そうでない限り、単なる研究手段は随時に各処に存在する断片的[#「断片的」に傍点]なオペレーションなのである。で今、研究手段=操作に就いて考えて見よう。
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* 拙稿「社会科学に於ける実験と統計」(前出)に於ては、実験的方法[#「的方法」に傍点]や統計的方法[#「的方法」に傍点]なるものを考えたのであるが、之自身は実は、あくまで実験的手段[#「手段」に傍点]や統計的手段[#「手段」に傍点]に止まるべきもので、それ自身[#「自身」に傍点]が方法となると考えた点は訂正しなければならぬ。――後を見よ。
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 所謂形式論理学は従来、科学の研究方法=研究様式を与えるものだと考えられて来ている。だが之は実は必ずしも当ってはいなかった。第一それは研究のオルガノン(用具)即ち研究手段[#「手段」に傍点]=操作を与えるものをしか意味していなかった。事実単にこのオルガノンだけで出来上る研究は、アリストテレス自身に於ても存在しなかったので、他の何等かの統一的な研究様式の下にこの用具を用いて初めて、科学的研究が出来たのだった。ベーコンの新しいオルガノンに就いても、実際はこの点に就いて異るものはないので、帰納を研究様式とするような科学があったとすれば、それは恐らく当時のガリレイの物理学の水準を遙かに下回っていたものに相違なかっただろう。で所謂演繹[#「演繹」に傍点]も帰納[#「帰納」に傍点]も、実は研究様式ではなくて研究手段[#「手段」に傍点]に他ならなかった。
 演繹と帰納とは併し、まだ形式的[#「形式的」に傍点]な研究手段に過ぎない。全く之は、形式[#「形式」に傍点]論理学の内容に相応わしい内容をしか有たない
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