「引用精神」に傍点]の問題にぞくする。かくて引用の精神は文献的認識[#「文献的認識」に傍点]の精神だ。――そこで文献的認識は現代科学に於てどのような役割を果しているか。
自然科学の研究に於ける文献の役割の大きいことを知らぬ人はない。「学術雑誌論文」こそは自然科学研究者から所謂「文献」と呼ばれている処のものだ。
だがここでは普通の学界常識からすると、古典という意味に於ける文献の意義は、あまり重んじられていないのではないかと思われる。ニュートンのプリンキピアは一つの古典であるが、現代の物理学や力学にとって文献的な価値があるとは、普通考えられていない。更にルクレティウスの詩「自然物論」やギリシア自然学者の「物理学」の類は、もはや科学の古典でさえもなくて、単に一般思想上の遺産に過ぎないと考えられている。ここから現代自然科学にとっての何等かの意義を見出すものは、例えば故寺田寅彦博士のような多少ともディレッタント風な研究家の思い付きに過ぎぬ、というような感を、普通の自然科学アカデミッシャンは有つらしい。
併し少し考えて見ると、自然科学上の古典的文献に対するこうした態度は、自然科学的認識についての皮相な理解に基くものでしかないことが判る。自然科学と雖も夫々の部門について又夫々のテーマについて纏められた結論が、科学的認識の発達に貢献する所以を明らかにするためには、その認識の歴史的由来[#「歴史的由来」に傍点]を、正確に検討してかからねばならぬことはあきらかだ。自然科学各部門各テーマの系統的研究は、この意味で科学史的[#「科学史的」に傍点]研究を俟たずには真に科学的[#「科学的」に傍点]ではあり得ない。科学の実証的、実験的、研究にとっても科学史的研究は不可欠であり、これに基いた科学の真に歴史的研究[#「歴史的研究」に傍点]であって初めて、唯一の本格的な科学的研究になると云わねばならぬ。自然科学にとって、云わば科学前[#「前」に傍点]的な認識論的省察が必要だとか、世界観の検討が要求されるとかいうことも、皆この点に帰着することを見透さねばならぬ。自然科学研究にとって、文献乃至引用の精神が持つ役割は、このように意外な重大性をもっている。
文献の自然科学研究に於ける役割は併し、元来極めて健全なものだということが出来る。と云うのは、この場合の文献的精神、引用の精神は、実証的な、実験的な、技術的な、そして実践的な、規格を遵奉せざるを得ないものであって、事物の一片と雖も単なる文献と引用だけでは片づかないことが初めから明らかだからである。実験的研究から切り離された文献的研究が、正当な意味に於て今日の自然科学的研究でないことは、云うまでもない。――処が、それにも拘らず、この自然科学の背後にも、何等実証的なカテゴリーと関係を持たないような自然哲学的・観念的・精神主義的・其の他其の他の形而上学的世界観が現われることは、往々見られる現象だ。こうしたフラーゼオロギーは全く、文献的精神・引用の精神・の戯画であるが、それというのも、自然科学は自然科学、その背後の認識論の類は認識論、という風に、二つのものを切り離して考える俗物自然科学者の習慣に傚うからのことで、自然科学の研究そのものが、正に先に云ったように歴史的[#「歴史的」に傍点]な認識に基く所以を、理解しないからのことに他ならぬ。
社会科学・文化理論・哲学・などになると、文献と引用との科学的・又非科学的・役割は、遙かに大きくなり又露骨になる。社会学の書物の或る種の一群を見ると、凡ての書物の内容の大半が相互の引用によって占められている場合さえあるのだ。支那訳を媒介とする仏教教典を古典的文献とし、それからの文句及びカテゴリーの引用によって今日の現実の社会現象・文化現象・を分析しようというのは、日本の僧侶学者や夫につらなる一群の精神運動家達のやり方である。国学の古典から社会理論体系や政治学組織や経済理論までを導き出そうというのは、日本の復古主義的・伝統主義的・国粋論的・封建主義的・な反動日本主義者の政治イデオロギーであることを、読者は知っているだろう。
そこにあるものが事実、如何にフラーゼと引用とによって、論旨の要点を支えられているかは、一見して明らかだ。その極端なものは、古代神話の叙述からの文献的引用を以て、現実の社会の理解の鍵としようとするのである。周代の社会機構に基く処の、或いは寧ろ漢代に這入って、社会のイデオロギーとして定着したところの儒教の古典から、直接の引用・間接の解釈・を以て徳川期の社会機構に君臨しようとしたものが、所謂腐儒であったとすれば、日本古代社会の機構を離れて、国学的な引用を以て二十世紀の日本的現実を理解しようという者は、何と呼ばれるべきであろうか。――だが之は単に極端な戯画にすぎない。ここ
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング