出来ない。科学的精神とはその限り歴史的認識の精神[#「歴史的認識の精神」に傍点]である。事物をその実際の運動に従って把握する精神なのだ。
だが科学的精神の意味する実証的精神は、同時に技術的精神[#「技術的精神」に傍点]をも意味する。その意味はこうだ。実践や実験は要するに社会に於ける生産の技術から離れては、社会的に存立するものではない。社会の生産技術に触れない如何なる行動も、単に肉体の運動ではあっても少しも実践的ではない。世界を根柢から動かすことが実践の最後の意味だろうが、生産技術に関わりない行動は世界を根柢から動かすことは出来ぬ。実験のプロパーな意味は、こうした技術的機動力を有つ実践が、自然に対して働きかける場合を指す。そして実験が生産技術の水準によって直接支配されることも、判り切ったことだ。実験は産業と一つづきのものだ(実験室と工場との結合を見よ)。かくて科学的精神は又技術的精神である。
事実、技術的精神によるのでなければ事物の歴史的認識を齎すことは出来ないのだ。科学的精神とは、歴史的・技術的・精神である。実践的精神と論理的精神とが夫だ。――で、フィロロギー精神が如何に非技術的で非論理的であるか、又如何に非歴史的で非実践的なものであるかを、考えて見るがよい。処が夫がなおかつ、一見歴史的でそして技術的なものでさえあるように見える点こそが、フィロロギー精神の魔術なのであり、フィロロギー精神・引用精神・文献精神・の思い上り得る所以でもあるのだ。論理とはただの思考のからくりのことではない、現実そのものの組立てのことだ。だから実践は論理に立って初めて成り立つ。実践と論理との統一、というよりも論理に拠らねば実践が成り立たないという、このただの一つの世界的宇宙的事実そのものが、つまり科学的精神ということの説明に他ならない。
科学的精神はあれ之の精神の一つなのではない。普遍的な精神なのだ。ヨーロッパ精神でもなければギリシア精神でもない、日本的精神でもなければ東洋精神でもない。そういうものと並ぶものではないのだ。夫々の異った時代・社会の・現実[#「現実」に傍点]のある処に常に、要求されねばならぬ精神のことだ。云わば之は現実そのものの精神だと云ってもよい。――処でここからこういう一つの結論が出て来る。科学的精神の働きかける処は常に現実であり、常に目のあたりある処の現実だ。科学
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