Wャーナリズム哲学としてしか発生しないし又生存出来ない。処がジャーナリズム哲学と雖もアカデミーのブルジョア哲学の評論化・通俗化・俗流化に過ぎない場合が少なくない。だから今日のプロレタリア哲学――唯物弁証法の哲学――は、一方に於てアカデミズムのブルジョア哲学に対抗するばかりではなく、他方ブルジョア・ジャーナリズム哲学(例えばファッショ哲学や国粋哲学)にも対抗しなければならない。即ち今日多くの国のプロレタリア哲学は、後者の場合に於てはプロレタリア・ジャーナリズム哲学を、前者の場合に於てはプロレタリア・アカデミズム哲学を、その目標として進まねばならぬ状態に置かれているのである。
資本主義国に於ける哲学イデオロギーは、凡てのイデオロギーがそうであるように、ジャーナリズムとアカデミズムとの収拾すべからざる分裂に陥っている。そこでアカデミズム諸哲学は自分に対する大衆の意識的なジャーナリスティックな批判によって迅速に規則的に整理される機会が殆んど全く無いから、いつもありと凡ゆる諸説の紛糾に煩わされざるを得ない。アカデミズムの哲学はそのアカデミー的研究機構によって勢力的に進歩するのではなくて、却って
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