B二つは連帯を断たれて各々独立する外はあるまい。強いて両者を連結しようとすればヘーゲルの口吻に倣って――ヘーゲルこそ論理を独立化したと云われる(汎論理主義)――、論理的なるものは存在的である、とでも云わねばならない。――さてこのような位置を占める存在が社会的存在によって代表的に理解せられる理由があるのである**。
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* 思うに言葉[#「言葉」に傍点]はこの表現の乗具である。それであるから言葉も亦――論理に準じて――純論理的に・情意的に・修辞的に・そして又社会的に・規定されることが出来るであろう。
** 論理――思惟・知能――が何か特別な独立的存在と考えられることによって、論理学が一切の存在との連帯性を失うということを指摘したのは J. Dietzgen の率直な一文章である。恰も、国民の富を国民の貧困から独立化し、前者を後者との連帯に於て把握し得ない経済学と同じに、このような論理学はただ教授達の支配者論理学でしかないと、この靴工は云っている。真の論理学は之に反して、論理をば全世界との連関に於て、全面的に追求し発見する、それは彼によって「民主主義
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