である。こういう患者が公式フォビヤとなるのは、臨床的に研究済みのようなものであろう。

 公式の価値はその科学的機能に存する。最も簡単な例は化学分析である。定性分析と定量分析には一定の公式があって、この公式の組織を使って最も的確に分析を決定することが出来る。与えられた一塊の鉱物を鑑定する場合にも一定の既知の公式がある。この公式で切断して行った結果、鉱物は限定され決定される。公式は大体に於て交叉による現物を限定する。丁度製図のようなものだ。
 だがこの機能は決して科学や自然科学だけに特有なものではない。一切の思想も亦、この交叉によって進展する。思想の前進・着想・科学的想像力、どれもが大体このクロッシングの所産であることを注意しなければならぬが、こういう思想の労作なしには、一片の文芸も不可能なのだ。文学はよく云われるような思想のただの表現や血肉化や風俗化ではない。思想そのものを押し進め限定することが文学の第一課題なのである。之を仮にも文学以前などと称する者は、みずから文学への絶望を表白するものでしかあるまい。この思想の労作に思想の科学性があり、思想の価値があるのであって、そうでない思想は思想ではなくてただの固定観念にすぎない。そんな観念は邪魔にこそなれ何の価値もないものだ。こういう観念をしか思想と考えない文学は、思想を邪魔にして創作の障害と考える権利を有つだろう。
 だから考えて来ると、文学にとっても、それによって思想の開拓が試みられる限り(そうでない文学は作者の楽屋裏では意義があっても大衆のものではない)、科学的公式が不可欠な要素でなくてはならぬ。この公式のクロッシングによって限定裁断するのでなければ、作品のテーマらしいものも生まれはしない。題材や話題が文学的なテーマではない。テーマは思想的な課題を意味するものだろう。作品はその課題の人種実験的な解決のようなものである。
 公式の持つ科学的機能を、体系(システム)と名づけてもよい。システムにも色々あるが、一般に体系的なものは科学的[#「科学的」に傍点]と仮称されている。体系は時によって目茶なものも不可能ではないから、何でも体系的であれば科学的だと考えることは危険極りないことで、だからして特に社会科学や何かに於ては(元来の意味に於ける実験が不可能なものだから)、相当に考え抜かれた、而し出鱈目なシステムが、みずから科学的と号することも出来るわけであるが、併しとに角、科学的であるということは本当の意味に於て体系的であることだという点には間違いはない。公式はこの科学的体系の要素なのである。
 システムというと物ごとの不動な布置ででもあるように考えるのが、一部の常識である。そして公式や科学に恐怖を持つ者は、それをこの不動な布置としてのシステムに結びつけて、非難する。システムは死んだものだという。だからシステムのないものは活きたものだというのだ。安価の生命主義や何かはこの手を使うのであるが、相当の哲学者にもシステムをそういうものと考えている者は多い。W・ジェームズがヘーゲルをこき下す場合には専らこのやり方であり、H・リッケルトなどが「開放システム」というような変な言葉を使う際にもこういう想定に立っている。だがこんなものがシステムならば誰もシステムなどを手頼りにする筈はない。
 システムは役に立つからシステムなのだ。公式も役に立つから公式なのである。単純に固定したものなら役に立つ筈はない。システムは体系化し組織化して行く処のものに他ならない。自分で肥って行くことがシステムでありオルガニズムである。体系や組織とは本来そういうもの以外にはないはずで、そうでなければ細胞のオルグなどということはナンセンスになる。そこで実際に思想内容を組織化し体系化して行くことだが、それはただやれない、実験とか経験とかいう感性的な媒介によって初めてシステムが育って行くのは知れた事だ。そうでないシステムは妄想にすぎないので、そういう非現実的なシステムは各種の精神病の典型によく現われる。だからシステムは単に、自分が肥って行くためのメカニズムを自分自身で用意する処のメカニズムであるばかりでなく、そのメカニズムが感性的な実際性(アクチュアリティー)を実地力(実践力)を、持っていることを必要とする。公式はそういう時に役に立つので、公式というのは過去の実際的経験が蓄積され精錬され省略化された活動用具だからである。
 どんな固定観念にでもシステムはある。凡そ観念の存する処、必ず観念のシステムはある。ただそのシステムが発達するシステムであるかないか、つまり同じことだが、その観念が発達する思想[#「思想」に傍点]であるかないかが、問題なのだが、併し生きて動いている思想でも、システムが透けて見えない場合は非常に多い。例えば古来どんな文芸評論家でもシステムを持たずには批評はなし得なかったが、併しではどんなシステムを持っているかということを、ただの外見からは見出すことの出来ない場合の方が多い。ばかりでなく批評家当人自身さえそう問われて困ることは珍しくなかっただろう。この場合には、システムが意識[#「意識」に傍点]されていないのである。意識化されたシステムを偶々その瞬間に持っていなかったのである。システムがなかったのではない。
 思想のシステムが透けてみえないことは、何か文学的な美徳であるというような迷信が流布している。だが、思想のない場合にも、思想は透けて見えないものだ。そして本当に自覚していないような思想は、思想ではない。思想は一種の労作か労働なのだから、どんなに天来の思想でも必ずその思想的なポテンシャル・エナージーを自覚しているものだ。自覚しないように考えられるのは、作家なら作家みずからその思想を説明する別な言葉を持ち合わさぬというまでで、そのためには評論家というものが助けに出て来るのだ。だから本当を云うと、透けて見えない思想などというものは、無思想と同じことなので、システムが見えないものは実は思想でも何でもないのである。思想的言語的表現法を有つ文芸についてはそうなのだ。
 思想のシステムが露骨に見えはせぬかという心配は、日本の文学の現状では少し先き走りすぎた越権でさえもあるように思われる。まず第一に心配すべきは無思想と無体系――世界を把握し実在を捕捉する――であり、第二に心配すべきはその思想と体系とが充分に独自な撚りをかけられているかどうか、つきつめて考え抜かれているかどうか、である。この点を単純に、思想の「具体化」とか「血肉化」とかいう常識で置きかえてはならぬ。思想の具体化とはまず第一に考え抜くことと撚りをかけることだ。システムを発動させることだ。この関門を通らずに、いきなり血肉化とか何とかいうのは、無思想と無体系との自己弁解と云われても仕方があるまい。思想の具体化ということは思想を徹底的にクロスさせて限定し切ることだ。そうしないと思想の血肉化などは不可能だ。――つまり公式の活用によるシステム・思想の発育ということが、文学の存在理由の第一をなすのである。こういう事情を科学的と呼ぶのである。
 創作に於てもクリティシズムに於ても、独り文芸のクリティシズムに限らずクリティシズム一般に於ても、公式とシステムとの意義は重い。独り科学だけに科学的な精神が必要なのではないのである。
 教養という問題が最近注目されている。文学者と教養とか学生と教養とかいう風に云われている。思想という言葉に魅力がなくなったので、今度は教養ということになったのかも知れない。思想的なアクセントを抜きにして、思想傾向とは独立と思われるらしい教養というものを持ち出して、もっとヒューマニズム的な気分を出す心算もあるかも知れない。だが教養とシステムとは切っても切れない関係に立っている。教養は勿論ただの教養効果や知識所有量や又お品の好さと一つではない。教養という観念を人格者論式に見ることも不充分であると共に、之をアカデミー主義から見ることも不充分だ。ただ修養したり又ただ勉強したりしたって教養にはならぬ。教養には見識のシステムがあって、それが事毎に発動して肥えて行くということがなくてはならぬ。そしてシステムの発動にはいつも公式というものが陰に陽に必要なのである。あれも之も知っているということは、花嫁の嫁入資格ではあっても、教養とは関係が無い。知識相互の間にカテゴリーの上での統一がなくてはならぬ。アカデミーにはアカデミー特有の、一般ジャーナリズムにはジャーナリズム特有の、低能現象があると思うが、文壇の低能現象はシステムの意識を自覚することの乏しい処にあるので世間では之を指して文壇に教養がないといっているのである。
 板垣鷹穂氏の言葉に、「味の素」評論家ということがある。ホーレン草にも沢庵にも同じ批評を振りかける評論家のことを指すらしいが、併し案外教養というのはこういう、人間の「味の素」ではないかとも考えられる。ホーレン草にも沢庵にも利くというものは、そんなにざらにあるものではない。尤もシステムは瓶に這入った味の素ではない、何にかけても美味くなるという事件そのものが、システムであろう。或いは一切の植物性食物に含まれている含有味の素が、システムかも知れない、して見るとフランスのアンシクロペディストなどは、こうした文化的味の素の発見者であったわけだ。之が教養という問題の本当の形だと思うが、するとさっきから云って来た処によって、最も教養ある人間は最も公式的でなくてはならぬということにさえなるようだ。
 公式は拒み得ても科学的公式は拒み得ない、科学的公式を拒み得てもシステムを拒み得ない。最後にシステムを拒むことは出来ても科学的システムを拒むことは出来ない。拒むということがすでにシステムに依らねばならぬことだからだ。尤もシステムに依らず無理論的に拒絶することが現在の日本では流行らぬでもない。そして知性とかいう言葉もこの肝心の処ではサッサと二つに分れる。どっちへ行こうと知性に変りはないらしい。だから私は知性というような二股かけた日本語は信用しないのである。
[#地付き](一九三七・七)



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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