公式主義は何より悪いものだということになって来た。それだけではない、公式を使って問題を解くことさえが、又やはり悪い公式主義であるという事になって来た。要するに悪いものは公式だということになって来た。つまり黒板の前に立往生した私も竹内教授から見れば公式主義なら、之に科学的訓誨を施した竹内教授も公式主義者だった、ということになるのである。要するに文学をやらずに数学などを黒板に出てやること自身が、抑々公式主義者だということになるのである。こうなると丁度、当時の私の心境が、最も公式主義から自由であったことになるわけで、二十年昔の、高等学校の文学青年時代にもう一遍立ち帰らざるを得ないということになって来たのだ。
 公式などは糞くらえだ、手近かに身近かで、常識的で思いつきのもので、わが身の血肉から、身辺から、無茶苦茶に出発を試みればよいということになる。「思想」などは、あれは教室でおそわってノートに書き込んだものに過ぎない。「教養」だって要するにそんなものでしかない。黒板の前に出たら、他人の認識上の迷惑などに関係なく、気の済むように自分自身を納得させさえすればいいように、誰も彼も身辺のABCから論
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