ひと吾を公式主義者と呼ぶ
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)特に[#「特に」に傍点]教学という
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東大数学科の教授である竹内端三博士は私にとって一種の恩師である。先生が八高から一高の教授に転任して来て最初に数学を受け持ったクラスの一つが、私のクラスであった。私は先生に微積分のごく初歩をならった。私は宿題が当って黒板に出て問題を解くという教育にあまり賛成でなかった生徒の代表的な一人であったので、適当に出欠を調節することに専ら数学的才能を傾倒したのであるが、或る時この計算を誤って遂に黒板の前に立たされて了った。
勿論私は少しも予習して来ていなかったから、仕方がなく、自分の納得の行くようなやり方で、問題を「根本」から解決し始めたのだが、とうとう私は黒板の前に呻吟する生徒の最後の一人となって残った。どうにか答は出たのだから、多分問題はやさしいものであったに相違ない。処で竹内教授は私に一場の科学的訓誨を垂れて云うに、数学には、判り切ったことをわざわざ一遍々々繰り返すのを避けるために、公式というものがある。君はその公式そのものから論証しようとするから無駄な時間がかかるのだ。公式位いは覚えておかなくてはいけない、というのであった。
実の処私は大変不服だったのである。公式というようなものを暗記していて、それで簡単に問題を片づけて了うのが、何か理科の生徒らしい非文学的な無教養を思わせるような気がしてならなかったからだ。大宅壮一氏は私を本質に於て文学青年だと再三保証して呉れているが、事実その頃は少し文学青年であったようだ。文学をやるのに法制経済など何の必要があるかと云って、級担任の教授に食ってかかった文科の生徒は私の親友であった。この法制経済否定論が、私の数学論に於ては公式否定論となって現われたのである。当時は、今日の大宅壮一とか服部之総とかいう連中が三高で大いに社会科学的研究の熱を揚げていた頃だが、「自由」をモットーとする三高に較べて「伝統」を合言葉にしている一高は、社会意識に於て可なり遅れていたのではないかと思う。或いは私だけが特にそうだったのかも知れない。がとに角私の「文学主義」は教室に於て事々に不都合を来たしたことは事実である。
教授の訓誨に不服ではあったが、併しその時初めて私は、他の友達がノートを一生懸命で暗記する意義がどこにあるかと云うことを悟ったのである。なる程勉強はやはりこういうやり方でなくてはいけないのだなと思った。そして多分、勉強に限らず、一人前になってから研究するにも、こういうやり方が科学的なのだなと、私は初めて気がついた。私は科学的精神というものを実は初めて知ったと云ってもいいが、それよりも大事なことに、私はこの時以来、公式主義者(?)となったことである。と云うのは、それ以来私は、判り切った誰にとっても似たりよったりのガラクタを、自分が初めて発見したように勿体をつけて一つ一つ繰り返すという退屈なやり方を、軽蔑するような気運に向いて来たのである。つまり公式を一々証明するだけの時間で、公式を使ってもっと先の問題を解く方が真面目なのだというイデオロギーを有つようになったのだ。之専ら旧師竹内端三先生の賜である。
処が驚いたことには、それから二十年近く経った今日になると、判り切った公式を一々証明してかかるのを省略することが公式主義だった筈なのに、物ごとは逆になって来て、判り切った公式を一々証明してかかることが即ち公式主義だというようなことになって来た。そして公式主義は何より悪いものだということになって来た。それだけではない、公式を使って問題を解くことさえが、又やはり悪い公式主義であるという事になって来た。要するに悪いものは公式だということになって来た。つまり黒板の前に立往生した私も竹内教授から見れば公式主義なら、之に科学的訓誨を施した竹内教授も公式主義者だった、ということになるのである。要するに文学をやらずに数学などを黒板に出てやること自身が、抑々公式主義者だということになるのである。こうなると丁度、当時の私の心境が、最も公式主義から自由であったことになるわけで、二十年昔の、高等学校の文学青年時代にもう一遍立ち帰らざるを得ないということになって来たのだ。
公式などは糞くらえだ、手近かに身近かで、常識的で思いつきのもので、わが身の血肉から、身辺から、無茶苦茶に出発を試みればよいということになる。「思想」などは、あれは教室でおそわってノートに書き込んだものに過ぎない。「教養」だって要するにそんなものでしかない。黒板の前に出たら、他人の認識上の迷惑などに関係なく、気の済むように自分自身を納得させさえすればいいように、誰も彼も身辺のABCから論
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