われて余《あまり》あるではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつある。我らの衷心《ちゅうしん》が然《しか》囁くのだ。しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖《あがな》わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋《はいすいひ》を夜|窃《ひそか》に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢《あふ》れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然《がぜん》鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢《いきおい》を以《もっ》て瞬《またた》く間に総崩れに陥《お》ち込んでしまった、ということが書いてある。旧組織が崩れ出したら案外|速《すみやか》にばたばたいってしまうものだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来《きた》すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らは出て来るに違いない。僕はかく思いつつ常に世田ヶ谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭《へきとう》において、我々は早くもここに十二名の謀叛人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である。
諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽《ことごと》く真剣に大逆《たいぎゃく》を行《や》る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。彼らの一人大石誠之助君がいったというごとく、今度のことは嘘から出た真《まこと》で、はずみにのせられ、足もとを見る暇《いとま》もなく陥穽《おとしあな》に落ちたのか、どうか、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂《しにものぐるい》になって、天皇陛下と無理心中を企《くわだ》てたのか、否か。僕は知らぬ。冷静なる法の目から見て、死刑になった十二名ことごとく死刑の価値があったか、なかったか。僕は知らぬ。「一無辜《いちむこ》を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企《くわだて》があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはし
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