ほどもない、しかも手も足も出ぬ者どもに対する怖《おび》えようもはなはだしいではないか。人間弱味がなければ滅多《めった》に恐がるものでない。幸徳ら瞑《めい》すべし。政府が君らを締め殺したその前後の遽《あわ》てざまに、政府の、否《いな》、君らがいわゆる権力階級の鼎《かなえ》の軽重は分明に暴露されてしもうた。
こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。諸君、我らは決して不公平ではならぬ。当局者の苦心はもとより察せねばならぬ。地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。廟堂の諸君も昔は若かった、書生であった、今は老成人である。残念ながら御《お》ふるい。切棄《きりす》てても思想は※[#「白+激のつくり」、第3水準1−88−68]々《きょうきょう》たり。白日の下に駒を駛《は》せて、政治は馬上提灯の覚束《おぼつか》ないあかりにほくほく瘠馬《やせうま》を歩ませて行くというのが古来の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。いわゆる責任ある地位に立って、慎重なる態度を以て国政を執《と》る方々である。当路に立てば処士横議《しょしおうぎ》はたしかに厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなるはず。統一統一と目ざす鼻先に、謀叛の禁物は知れたことである。老人の※[#「匈/月」、53−8]《むね》には、花火線香も爆烈弾の響《ひびき》がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一《せいいつとういつ》は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃《そろ》うすら心地好いものである。「一方に靡《なび》きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに余所目《よそめ》立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記臆せなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すはすなわち生命を殺すのである。今度の事件でも彼らは始終皇室のため国家のためと思ったであろう。しかしながらその結果は皇室に禍《わざわい》し、無政府主義者を殺し得ずしてかえって夥《おびただ》しい騒擾の種子を蒔いた。諸君は謀叛人を容《い》るるの度量と、青書生に聴くの
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