草鞋《わらじ》脱《ぬ》ぎすてて、出迎う二人《ふたり》にちょっと会釈しながら、廊下に上りて来し二十三四の洋服の男、提燈《ちょうちん》持ちし若い者を見返りて、
「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」
「まあ、きれい!」
「本当にま、きれいな躑躅《つつじ》でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」
「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が石楠《しゃくなげ》に似とるだろう。明朝《あす》浪《なみ》さんに活《い》けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか」
*
「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと! どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」
奥様は丁寧に畳《たた》みし外套《がいとう》をそっと接吻《せっぷん》して衣桁《いこう》にかけつつ、ただほほえみて無言なり。
階段《はしご》も轟《とどろ》と上る足音障子の外に絶えて、「ああいい心地《きもち》!」と入り来る先刻の壮夫《わかもの》。
「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」
「男だもの。あはははは」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに被《はお》る大縞《おおじま》の褞袍《どてら》引きかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手に頬《ほお》をなでぬ。栗虫《くりむし》のように肥えし五分刈り頭の、日にやけし顔はさながら熟せる桃のごとく、眉《まゆ》濃く目いきいきと、鼻下にうっすり毛虫ほどの髭《ひげ》は見えながら、まだどこやらに幼な顔の残りて、ほほえまるべき男なり。
「あなた、お手紙が」
「あ、乃舅《おとっさん》だな」
壮夫《わかもの》はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを出《いだ》せば落つる別封。
「これは浪さんのだ――ふむ、お変わりもないと見える……はははは滑稽《こっけい》をおっしゃるな……お話を聞くようだ」笑《えみ》を含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。
「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は饌《ぜん》を運べる老女を顧みつ。
「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」
「さあ、飯だ、飯だ、今日《きょう》は握り飯二つで終日《いちんち》歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう魚《さかな》だな、鮎《あゆ》でもなしと……」
「山女《やまめ》とか申しましたっけ――ねエばあや」
「そう? うまい、なかなかうまい、それお代わりだ」
「ほほほ、旦那様のお早うございますこと」
「そのはずさ。今日は榛名《はるな》から相馬《そうま》が嶽《たけ》に上って、それから二《ふた》ツ嶽《だけ》に上って、屏風岩《びょうぶいわ》の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」
「そんなにお歩き遊ばしたの?」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々《ぼうぼう》たる平原さ、利根《とね》がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠《よ》めたら、ひとつ人麿《ひとまろ》と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに景色《けしき》がようございますの。行って見とうございましたこと!」
「ふふふふ。浪さんが上れたら、金鵄《きんし》勲章をあげるよ。そらあ急嶮《ひど》い山だ、鉄鎖《かなぐさり》が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ江田島《えたじま》で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも綱《リギング》でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」
「まあ、あんな事を」にっこり顔をあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし――」
「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という国《くうに》は』何とか歌うと、女生《みんな》が扇を持って起《た》ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの温習《さらい》かと思ったら、あれが体操さ! あはははは」
「まあ、お口がお悪い!」
「そうそう。あの時山木の女《むすめ》と並んで、垂髪《おさげ》に結《い》って、ありあ何とか言ったっけ、葡萄色《ぶどういろ》の袴《はかま》はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」
「ほほほほ、あんな言《こと》を! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」
「山木はね、うちの亡父《おや》が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」
「あんな言《こと》!」
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