《さ》いて白波《はくは》高く両舷にわきぬ。将校あるいは双眼鏡をあげ、あるいは長剣の柄《つか》を握りて艦橋の風に向かいつつあり。
はるかに北方の海上を望めば、さきに水天の間に一髪の浮かめるがごとく見えし煙は、一分一分に肥え来たりて、敵の艦隊さながら海中よりわき出《い》づるごとく、煙まず見え、ついで針大《はりだい》の檣《ほばしら》ほの見え、煙突見え、艦体見え、檣頭の旗影また点々として見え来たりぬ。ひときわすぐれて目立ちたる定遠《ていえん》鎮遠《ちんえん》相連《あいなら》んで中軍を固め、経遠《けいえん》至遠《しえん》広甲《こうこう》済遠《さいえん》は左翼、来遠《らいえん》靖遠《せいえん》超勇《ちょうゆう》揚威《ようい》は右翼を固む。西に当たってさらに煙《けぶり》の見ゆるは、平遠《へいえん》広丙《こうへい》鎮東《ちんとう》鎮南《ちんなん》及び六隻の水雷艇なり。
敵は単横陣を張り、我艦隊は単縦陣をとって、敵の中央《まなか》をさして丁字形に進みしが、あたかも敵陣を距《さ》る一万メートルの所に至りて、わが先鋒隊《せんぽうたい》はとっさに針路を左に転じて、敵の右翼をさしてまっしぐらに進みつ。先鋒の左に転ずるとともに、わが艦隊は竜《りゅう》の尾をふるうごとくゆらゆらと左に動いて、彼我の陣形は丁字一変して八字となり、彼は横に張り、われは斜めにその右翼に向かいて、さながら一大コンパス形《けい》をなし、彼進み、われ進みて、相|距《さ》る六千メートルにいたりぬ。この時敵陣の中央に控えたる定遠艦首の砲台に白煙むらむらと渦まき起こり、三十サンチの両弾丸空中に鳴りをうってわが先鋒隊の左舷の海に落ちたり。黄海の水驚いて倒《さかしま》に立ちぬ。
一の四
黄海! 昨夜月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲を※[#「※」は草冠に左に酉、右に隹その下にれっか、第3水準1−91−44、151−3]《ひた》し、島影を載せ、睡鴎《すいおう》の夢を浮かべて、悠々《ゆうゆう》として画《え》よりも静かなりし黄海は、今|修羅場《しゅらじょう》となりぬ。
艦橋をおりて武男は右舷速射砲台に行けば、分隊長はまさに双眼鏡をあげて敵の方《かた》を望み、部下の砲員は兵曹《へいそう》以下おおむねジャケットを脱ぎすて、腰より上は臂《ひじ》ぎりのシャツをまといて潮風に黒める筋太の腕をあらわし、白木綿《しろもめん》もてしっかと腹部を巻けるもあり。黙して号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつすでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵の中央を堅めし定遠鎮遠はまっ先にぬきんでて、横陣やや鈍角をなし、距離ようやく縮まりて二艦の形状《かたち》は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭《ふとう》に見しことを思い出《い》でたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、白波《はくは》をけり、砲門を開きて、咄々《とつとつ》来たってわれに迫らんとするさまの、さながら悪獣なんどの来たり向こうごとく、恐るるとにはあらで一種やみ難き嫌厭《けんえん》を憎悪《ぞうお》の胸中にみなぎり出《い》づるを覚えしなり。
たちまち海上はるかに一声の雷《らい》とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島の大檣《たいしょう》をかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男は後頂より脊髄《せきずい》を通じて言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲尾に群がりし砲員の列一たびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島の四辺に水柱をけ立てつ。
「分隊長、まだですか」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、牽索《けんさく》握られつ。待ち構えたる一声のラッパ鳴りぬ。「打てッ!」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷側砲一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく渦まき起こりぬ。
あたかもその答礼として、定遠鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸すさまじく空にうなりて、煙突の上二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず頭《かしら》を下げぬ。
分隊長顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」
武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。
「さあ、打てッ! しっかり、しっかり――打てッ!」
右舷側砲は連《つる》べ放《う》ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうち
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