いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」
 「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血《かっけつ》がとまって少し快方《いいほう》に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、母《おっか》さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」
 武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。

     六の四

 母はつと立ち上がって、仏壇より一つの位牌《いはい》を取りおろし、座に帰って、武男の眼前《めさき》に押しすえつ。
 「武男、卿《おまえ》はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で今《ま》一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、今《ま》一度言って見なさい、不孝者めが!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、115−16]」
 きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。
 さすがに武男も少し気色《けしき》ばみて「なぜ不孝です?」
 「なぜ? なぜもあッもンか。妻《さい》の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略《そまつ》にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、卿《おまえ》は不孝者、大不孝者じゃと」
 「しかし人情――」
 「まだ義理人情をいうッか。卿《おまえ》は親よか妻《さい》が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」
 武男は唇《くちびる》をかみて熱涙を絞りつつ「母《おっか》さん、それはあんまりです」
 「何があんまいだ」
 「私《わたくし》は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母《おっか》さんにその心が届きませんか」
 「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を離縁《じえん》せンッか」
 「しかしそれは」
 「しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻《さい》が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ」
 「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の羅宇《らう》はぽっきと折れ、雁首《がんくび》は空を飛んではたと襖《ふすま》を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに片唾《かたず》をのむ人の気《け》はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」
 「だれ? ――何じゃ?」
 「あの! 電報が……」
 襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人《あるじ》の一|睨《げい》に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に二人《ふたり》が間の熱やや下《くだ》りて、しばらくは母子《おやこ》ともに黙然《もくねん》と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。
 母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。
 「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も卿《おまえ》のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた一人《ひとり》の卿《おまえ》じゃ。卿《おまえ》に出世をさせて、丈夫な孫|抱《で》えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」
 黙然と考え入りし武男はわずかに頭《かしら》を上げつ。
 「母《おっか》さん、とにかく私《わたくし》も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、明日《あす》はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私《わたくし》が帰って来るまでは、待っていてください」
       *
 あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪《と》いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子《ずし》におりつ。
 汽車を下《くだ》れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙《すな》はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹《はねつるべ》の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音《つまおと》聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心《しん》の臓をむしらるる心地《ここち》して、武男はしばし門外に涙《なんだ》をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人《おっと》を待ちがてに絶えて久しき琴取り出《い》でて奏《かな》でしなりき。
 顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐《ばんさん》の卓《つくえ》に、浪子は良人《おっと》と対《むか》いしが、二人《ふたり》ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑《えみ》に紛らして、手ずか
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