謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。
否《いや》でも応《おう》でも境遇に我等は支配される。我々の邦《くに》では一切の事が兎角徹底せぬわけである。
*
午後散歩、田圃《たんぼ》では皆欣々喜々として晩稲《おくて》を苅って居る。
甲斐《かい》の山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋《ふなばし》の方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪《ごむわ》の奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡《そうがんきょう》を翳《かざ》した。前なる透《す》かし幌《ほろ》の内は、丸髷に結って真白《まっしろ》に塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母《うば》らしいのが友禅《ゆうぜん》の美しい着物に包まれた女の児を抱《だ》いて居る。玩具など幌の扇骨《ほね》に結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣《みやもう》でに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪《ごむわ》が威勢の好い白法被《しろはっぴ》の車夫に挽《ひ》かれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨《がいこつ》が来るのかと思うた。其は一人の婆《ばば》であった。両の眼の下瞼《したまぶた》が悉《ことごと》く朱《あけ》に反《そ》りかえって、椎《しい》の実程の小さな鼻が右へ歪《ゆが》みなりにくっついて居る。小さな風呂敷包を頸《くび》にかけて、草履《ぞうり》の様になった下駄《げた》を突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄って婆《ばあ》さんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼の朱《あか》く反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余の傍《わき》を通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
余は今しがた眼の前を過ぎた二つの幻《まぼろし》の意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
[#地から3字上げ](大正元年 十一月十五日)
[#改ページ]
入営
辰《たつ》爺《じい》さん宅《とこ》の岩公《いわこう》が麻布聯隊に入営する。
寸志の一包と、吾れながら見事《みごと》に出来た聖護院《しょうごいん》大根《だいこ》を三本|提《さ》げて、挨拶に行く。禾場《うちば》には祝入営の旗が五本も威勢《いせい》よく立って、広くもあらぬ家には人影《ひとかげ》と人声《ひとごえ》が一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺《ちゃん》の辰さんがせっせと饂飩粉《うどんこ》を捏《こ》ねて居る。是非《ぜひ》上《あが》れと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
午後万歳の声を聞いて、遽《あわ》てゝ八幡《はちまん》に往って見る。最早《もう》楽隊《がくたい》を先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、茶《ちゃ》の中折帽《なかおれぼう》と云う装《なり》で、神酒《みき》の所為《せい》もあろう桜色になって居る。岩公の阿爺《ちゃん》は体格《なり》は小さい人の好い爺《じい》さんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先《まっさ》きに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛《ぎんてき》、太鼓《たいこ》、手風琴《てふうきん》なぞピー/\ドン/\賑《にぎ》やかに囃《はや》し立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間《なかま》である。次ぎに送入営の幟《のぼり》が五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中《よいよなか》小使銭《こづかい》貸せの破落戸漢《ならずもの》に踏み込まれたり、苦労に齢《とし》よりも老《ふ》けた岩公の阿母《おふくろ》が、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服《すいへいふく》の丈高《たけたか》い男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日|母者《ははじゃ》の葬式《そうしき》をして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路《こみち》から帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊の曲《きょく》が次第に東へ進んで行く。
今日は何処《どこ》も入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空に※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って居た。
[#地から3字上げ](明治四十四年 十一月三十日)
*
辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家《うち》は組内だから昨日も何角《なにか》の手
前へ
次へ
全171ページ中144ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング