斯《この》季節《きせつ》に農家を訪えば大抵《たいてい》は門をしめてある。猫一疋居ぬ家もある。何を問うても、くる/\とした眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、「知ンねェや」と答うる五六歳《いつつむつ》の女の子が赤ン坊《ぼう》と唯二人留守して居る家《うち》もある。斯様《こん》な時によく子供の大怪我《おおけが》がある。家の内は麦の芒《のげ》だらけ、墓地は草だらけで、お寺や教会では坊さん教師が大欠伸《おおあくび》して居る。後生なんか願うて居る暇が無いのだ。

       七

 忙《せわ》しい中に、月は遠慮《えんりょ》なく七月に入る。六月は忙しかったが、七月も忙しい。
 忙しい、忙しい。何度云うても忙しい。日は永くても、仕事は終《お》えない。夜は短《みじか》くてもおち/\眠ることが出来ぬ。何処《どこ》の娘も赤い眼をして居る。何処のかみさんも、半病人《はんびょうにん》の蒼《あお》い顔をして居る。短気の石山さんが、鈍《どん》な久さんを慳貪《けんどん》に叱りつける。「車の心棒《しんぼう》は鉄《かね》だが、鉄だァて使《つか》や耗《へ》るからナ、俺《おら》ァ段々|稼《かせ》げなくなるのも無理はねえや」と、小男《こおとこ》ながら小気味よく稼ぐ辰《たつ》爺さんがこぼす。「違《ちげえ》ねえ、俺ァ辰さんよか年の十も下だンべが、何糞《なにくそ》ッ若け者《もん》に負けるもンかってやり出しても、第一|息《いき》がつゞかんからナ」と岩畳《がんじょう》づくりの与右衛門さんが相槌《あいづち》をうつ。然し耗っても錆《さ》びても、心棒は心棒だ。心棒が廻わらぬと家が廻わらぬ。折角《せっかく》苅《か》り入れた麦も早く扱《こ》いて撲《ぶ》って俵にしなければ蝶々《ちょうちょう》になる。今日も雨かと思うたりゃ、さあお天道様《てんとさま》が出なさったぞ、皆《みんな》来《こ》うと呼ばって、胡麻塩頭《ごましおあたま》に向鉢巻、手垢に光るくるり棒《ぼう》押取《おっと》って禾場《うちば》に出る。それっと子供が飛び出す。兄が出る。弟が出る。嫁《よめ》が出る。娘が出る。腰痛《ようつう》でなければ婆さんも出る。奇麗に掃いた禾場《うちば》に一面の穂麦を敷《し》いて、男は男、女は女と相並んでの差向い、片足《かたあし》踏出《ふみだ》し、気合を入れて、一上一下とかわる/″\打下ろす。男は股引《ももひき》に腹かけ一つ、黒《くろ》鉢巻《はちまき》の経木《きょうぎ》真田《さなだ》の帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶって、赤銅色《しゃくどういろ》の逞《たくま》しい腕に撚《より》をかけ、菅笠《すげがさ》若くは手拭で姉様冠《あねさまかぶ》りの若い女は赤襷《あかだすき》手甲《てっこう》がけ、腕で額の汗を拭き/\、くるり棒の調子を合わして、ドウ、ドウ、バッタ、バタ、時々《ときどき》群《むれ》の一人が「ヨウ」と勇《いさ》みを入れて、大地も挫《ひし》げと打下ろす。「お前《まえ》さんとならばヨウ、何処《どこ》までもウ、親を離れて彼世《あのよ》までもゥ」若《わか》い女の好い声《こえ》が歌う。「コラコラ」皆が囃《はや》す。禾場《うちば》の日はかん/\照って居る。くるり棒がぴかりと光る。若い男女の顔は、熟した桃の様に紅光《あかびか》って居る。空には白光りする岩雲《いわぐも》が堆《うずたか》く湧《わ》いて居る。
 七月中旬、梅雨《つゆ》があけると、真剣に暑くなる。明るい麦が取り去られて、田も畑も緑《みどり》に返える。然し其は春暮《しゅんぼ》の嫩《やわ》らかな緑では無い、日中は緑の焔《ほのお》を吐《は》く緑である。朝夕は蜩《ひぐらし》の声で涼しいが、昼間は油蝉《あぶらぜみ》の音の煎《い》りつく様に暑い。涼しい草屋《くさや》でも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体《はだか》である。畑ではズボラの武太さんは褌《ふんどし》一つで陸稲《おかぼ》のサクを切って居る。十五六日は、東京のお盆《ぼん》で、此処《ここ》其処に藪入姿《やぶいりすがた》の小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車は、此等の小僧さんで満員である。

       八

 暴風にも静な中心がある。忙《せわ》しい農家の夏の戦闘《いくさ》にも休戦の期《き》がある。
 七月|末《すえ》か、八月初か、麦も仕舞《しま》い、草も一先ず取りしもうた程《ほど》よい頃を見はからって、月番から総郷上《そうごうあが》り正月のふれを出す。総郷業を休み足を洗うて上るの意である。其《その》期は三日。中日は村|総出《そうで》の草苅り路普請《みちぶしん》の日とする。右左から恣《ほしいまま》に公道を侵《おか》した雑草や雑木の枝を、一同|磨《と》ぎ耗《へ》らした鎌で遠慮|会釈《えしゃく》もなく切払う。人よく道を弘《ひろ》むを、文義《もんぎ》通りやるのである。慾張《よくばり》と名のある不人
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