に寄って糸経《いとだて》を買うて被《かぶ》った。腰に下げた手拭《てぬぐい》をとって、海水帽の上から確《しか》と頬被《ほおかむり》をした。而して最早大分|硬《こわ》ばって来た脛《すね》を踏張《ふんば》って、急速に歩み出した。
府中の町を出はなれたかと思うと、追《おい》かけて来た黒雲が彼の頭上《ずじょう》で破裂《はれつ》した。突然《だしぬけ》に天の水槽《たんく》の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落《たきおと》しに撞々《どうどう》と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直《す》ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇《はげ》しい雷《らい》が鳴った。彼はぐっと息《いき》が詰《つま》った。本能的に彼は奔《はし》り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]ドウ※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と漲《みなぎ》り落ちた。彼の頬被りした海水帽《かいすいぼう》から四方に小さな瀑が落ちた。糸経《いとだて》を被った甲斐もなく総身濡れ浸《ひた》りポケットにも靴にも一ぱい水が溜《たま》った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電《いなずま》がぱっ/\と一しきり闇に降る細引《ほそびき》の様《よう》な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷《かみなり》がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥《おびただ》しい爆竹《ばくちく》を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕《くだ》けた。長大《ちょうだい》な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其《その》度《たび》に彼は思わず立竦《たちすく》んだ。如何《どう》しても落ちずには済《す》まぬ雷《らい》の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度《きっと》落ちると覚期《かくご》せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此《この》街道《かいどう》の此部分で、今動いて居る生類《しょうるい》は彼一人である。雷が生《い》き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死《し》ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直《なお》さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里|隔《へだ》てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己《じこ》の生涯を省みた。其れは美《うつく》しくない半生であった。妻に対する負債《ふさい》の数々も、緋の文字《もじ》をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人《ひとり》はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭《あたま》に閃《ひらめ》いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇《はげ》しく鳴った。最早《もう》今度《こんど》は落ちた、と彼は毎々《たびたび》観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類《しょうるい》に対する憐愍《あわれ》に満された。彼の眼鏡《めがね》は雨の故ならずして曇《くも》った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降《こぶ》りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白《なまじろ》い夕明《ゆうあかり》になった。調布の町では、道の真中《まんなか》に五六人立って何かガヤ/\云いながら地《ち》を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出《で》りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋《まきごや》に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
雷雨が過ぎて、最早|大丈夫《だいじょうぶ》と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡《ぬ》れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
家へ六七丁の辺《へん》まで辿《たど》り着くと、白いものが立って居る。それは妻《つま》であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩《おそ》いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。
*
翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川《たまがわ》の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳《へさ
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