を提《さ》げて、蹣跚《まんさん》と改札口を出て行くのが見えた。江刺《えさし》へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客《ゆうかく》の為に設けた形《かた》ばかりの停車場である。こゝで下車。宿引《やどひき》が二人待って居る。余等は導《みちび》かれて紅葉館の旗《はた》を艫《とも》に立てた小舟に乗った。宿引は一礼《いちれい》して去り、船頭は軋《ぎい》と櫓声《ろせい》を立てゝ漕《こ》ぎ出す。
黄金色《こがねいろ》に藻の花の咲く入江《いりえ》を出ると、広々とした沼の面《おも》、絶えて久しい赤禿《あかはげ》の駒が岳が忽眼前に躍《おど》り出た。東の肩からあるか無いかの煙《けぶり》が立上《のぼ》って居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末《そまつ》な料理屋が二三軒|水際《みぎわ》に立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路《くしろ》まで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものは旧《きゅう》に仍《よ》って晴々《はればれ》した而して寂《しず》かな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤ楓《かえで》はそろ/\染《そ》めかけて居る。処々|楢《なら》や白樺《しらかば》にからんだ山葡萄《やまぶどう》の葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島《めおとじま》の方に帆舟が一つ駛《はし》って居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、鴨《かも》が飛び、千鳥《ちどり》が飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。夥《おびただ》しくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間《ひとま》に案内された。
都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼に臨《のぞ》み、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒《さっぱり》とした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。薪《まき》を使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼の鯉《こい》、鮒《ふな》の料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水の際《きわ》の静かな夜の眠《ねむり》に入った。
真夜中《まよなか》にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙《すき》から雷が光った。而して颯《ざあ》と雨の音がした。起きて雨戸を一枚|繰《く》って見たら、最早《もう》月が出て、沼の水に螢《ほたる》の様に星が浮いて居た。
(二)
明方《あけがた》にはまたぽつ/\降って居たが、朝食《あさめし》を食うと止んだ。小舟で釣《つり》に出かける。汽車の通うセバットの鉄橋の辺《あたり》に来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋の蔭《かげ》に舟を寄せて雨宿《あまやど》りする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、目《め》ざす鮒《ふな》はかゝらず、ゴタルと云う※[#「魚+少」、第3水準1−94−34]《はぜ》の様な小魚《こざかな》ばかり釣れる。舟を水草《みずくさ》の岸に着《つ》けさして、イタヤの薄紅葉《うすもみじ》の中を彼方《あち》此方《こち》と歩いて見る。下生《したばえ》を奇麗に払った自然の築山《つきやま》、砂地の踏心地《ふみごこち》もよく、公園の名はあっても、あまり人巧《じんこう》の入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚を据《す》えて、十八九の青年が水彩写生《すいさいしゃせい》をして居た。駒が岳に雲が去来《きょらい》して、沼の水も林も倏忽《たちまち》の中に翳《かげ》ったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲《めぐり》八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄《ゆうせい》でもなく、霞が浦の淡蕩《たんとう》でもなく、大沼は要するに水を淡水にし松を楢《なら》白樺《しらかば》其他の雑木にした松島である。沼尻は瀑《たき》になって居る。沼には鯉、鮒、鰌《どじょう》ほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基《いくつ》も立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生の漕《こ》いで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟《ゆさんぶね》も一つ二つ見えた。舟を唯有《とあ》る岸に寄せて、殊《こと》に美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。
午後は画《え》はがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函《とうかん》に往った。軟《やわ》らかな砂地に下駄を踏《ふ》み込んで、葦《あし》やさま/″\の水草の茂《しげ》った入江の仮橋を渡って
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