すてゝ万年橋を渡った。つい其処の歌舞伎座の書割《かきわり》にある様な紅味《あかみ》を帯びた十一日の月が電線《でんせん》にぶら下って居る。
築地外科病院の鉄扉《てっぴ》は勿論しまって居た。父のと思わるゝ二階の一室に、ひいた窓帷《まどかけ》越《ご》しに樺色《かばいろ》の光がさして居る。余は耳を澄ました。人のうめき声がしたかと思うたが、其は僻耳《ひがみみ》であったかも知れぬ。父は熟睡《じゅくすい》して居るのであろう。其子の一人が今病室の光《あかり》を眺《なが》めて、此《この》深夜《よふけ》に窓の下を徘徊して居るとは夢にも知らぬであろう。
睡《ねむ》くなった。頭がしびれて来た。何処でもよい、此重い頭を横たえたくなった。余はうつら/\と夢心地に本願寺の近辺をぶらついた。体で余は歩かなかった。幽霊のようにふら/\とさまようた。不図墓地に入った。此処は余も知って居る。曾て一葉《いちよう》女史《じょし》の墓を見に来た時歩き廻った墓地である。余は月あかりに墓と墓の間を縫《ぬ》うて歩いた。誰やらの墓の台石《だいいし》に腰かけて見た。然し此処は永く眠るべき場所である。一夜の死を享《う》く可き場所ではない。余は墓地から追い出されて、また本願寺前の広場に出た。
不図本願寺の門があいて居るのを見つけた。門口には巡査か門番かの小屋《こや》があって、あかりがついて居る。然し誰|咎《とが》むる者も無いので、突々《つつ》と入って、本堂の縁《えん》に上った。大分西に傾いた月の光は地を這《は》うて、本堂の縁は闇《くら》い蔭《かげ》になって居る。やっと安息の場所を獲《え》て、広縁《ひろえん》に風呂敷を敷き、手枕《たまくら》をして横になった。少しウト/\するかと思うと、直ぐ頭の上で何やらばさ/\と云う響がした。余は眼を開《あ》いて頭上《ずじょう》の闇《やみ》を見た。同時に闇の中に「ク※[#二の字点、1−2−22]ク※[#二の字点、1−2−22]」と云う囁《ささ》やきを聞いた。
「あ、鳩《はと》だ」
余はまたウト/\となった。
月は次第に落ちて行く。
[#地から3字上げ](明治四十二年 四月一日)
[#改ページ]
与右衛門さん
村の三月節句で、皆が遊んであるく。家は潰《つぶ》され、法律上の妻には出て往かれ、今は実家の厄介《やっかい》になって居る久《ひさ》さんが、何《なに》発心《ほっしん》してか今日はまる/\の青坊主《あおぼうず》に剃《そ》って、手拭肩に独ぶら/\歩いて居る。
甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負《せお》って来た。「ドウもねえあなた、天道様《てんとうさま》に可愛がられまして、此通り真黒でございます」と頬《ほお》を撫《な》でる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛《びんぐし》と鶴子の花簪《はなかんざし》を買うた。
小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門《よえもん》さんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用《てんすいおけよう》の釜《かま》を買わぬかの、植木の売物があるのと、蟻《あり》の砂糖《さとう》につく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々|本当《ほんと》にしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。
与右衛門さんは、村内《そんない》切《き》っての吾儘者《わがままもの》剛慾者《ごうよくもの》としてのけものにさるゝ男である。村内でも工面《くめん》のよい方で、齢《とし》もまだ五十|左右《さう》、がっしりした岩畳《がんじょう》の体格、濃い眉の下に開《あ》いた蛇《じゃ》の目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺《てっぺん》から足の爪先《つまさき》まで慾気《よくけ》満々《まんまん》として寸分のタルミも無い。岩畳な彼を容《い》るゝその家は、基礎《どだい》を切石《きりいし》にし、柱《はしら》の数を多くし、屋根をトタンで包《つつ》み、縁《えん》を欅《けやき》で張り、木造の鬼《おに》の窟《いわや》の如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其|堅牢《けんろう》な意志の発現《はつげん》である。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其|威《い》に恐れぬものは無い。彼が家の麦からの束《たば》は、他家《よそ》の二倍もある。彼が家の夜具《よるのもの》は、宇都宮《うつのみや》の釣天井《つりてんじょう》程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ/\若者を凌《しの》ぐ婆さんである。婆さんの曰く、私《わたし》の家《うち》は信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏《かみほとけ》なんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾|自力宗《じりきしゅ
前へ
次へ
全171ページ中118ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング