しょうと云うた。とめやのきぬやは早速立ン坊を連れて良人《おっと》に引合わせ、翌日から車を挽《ひ》かせて行商《こうしょう》に出したが、立ン坊君正直に働いて双方喜んで居る云々。此話は非常に旧主人夫婦を悦ばした。あの温順《おとな》しい女にも、中々|濶達《かったつ》な所がある、所謂近江商人の血が流れて居る、とあとで彼等は語り合った。
 彼女は其時已に六月《むつき》の身重《みおも》であった。今年の春男子を挙げたと云うたよりがあった。今日の其《その》訃《ふ》は実に突然である。
 彼女の臨終は如何であったろうか。当歳の子と夫を残して逝《ゆ》く彼女は嘸《さぞ》残念であったであろう。然し彼女自身は朝《あした》に生《うま》れて夕《ゆうべ》に死すとも憾《うら》みは無い善良の生涯を送って居たので、生の目的は果した。彼女の実家は仏教の篤信者《とくしんじゃ》で、彼女の伯母《おば》なぞは南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》を唱《とな》えつゝ安らかな大往生《だいおうじょう》を遂《と》げた。彼女にも其血が流れて居る。
 謙遜な奉仕の天使、彼等が我等と共に在るの日、高慢な我等は微笑を以て其|弱点《じゃくてん》を見つゝ十分に尊敬を払《はら》わず、当然の事の如く座《い》ながらにして其|心尽《こころづく》しの奉仕を受け易《やす》い。彼等が去るの日に於て、我等は今更の如く其人と其働の意味を知り得て、あらためて感謝と慚愧《ざんき》を感ずるのである。
[#改ページ]

     命がけ

 昨夜は烈《はげ》しく犬が騒《さわ》いだ。
 今朝《けさ》起きて見ると、裏庭《うらにわ》の梧桐《あおぎり》の下に犬が一|疋《ぴき》横になって居る。寝たのかと思うと、死んで居るのであった。以前《もと》時々内のピンに通って来た狐《きつね》見た様な小柄《こがら》の犬だ。デカが噛《か》み殺したと見える。
 裏のはなれに泊って居るA君の話によれば、昨夜ピンを張りに来た此犬を、デカがはなれの縁の下に追い込んで、足を啣《くわ》えて引きずり出し、而《そう》して睾丸《こうがん》を啣えて体をドシ/\と大地に投げつけた。A君が余程引きはなそうと骨折ったが、デカが如何しても放さなかったと云う事である。
 此辺には牝犬《めいぬ》が少ないので、春秋の交尾期《こうびき》になると、猫程しかないピンを目がけて、来《く》るわ/\、白君、斑君《ぶちくん》、黒君、虎君、ポインタァ君、スパニール君、美君、醜君……婿《むこ》八人どころの騒ぎではない。デカも昨春までは、其一人であったが、抜群の強猛《きょうもう》故に競走者を追払《おっぱら》って、押入婿《おしいりむこ》になり済《す》ましたのである。今は正規の夫婿顔《ふせいがお》して、凡そ眼の届《とど》かん限り、耳の聞かん限り、一切の雄犬《おいぬ》を屋敷の内へは入れぬ。其目一たび雄犬の影を見ようものなら、血相変えて追払う。宛ながら足の四本に止まるを憾《うら》むが如く、一口《ひとくち》に他の犬を喰《く》うてしまうことが出来ぬを悲しむ如く、醜《しこ》の壮夫《ますらお》デカ君が悲鳴をあげつゝ追駈《おっか》ける。其時はピンもさながらデカに義理を立てるかの如く、横合《よこあい》からワン/\吠《ほ》えて走って行く。
 最初飼った「白《しろ》」は弱虫だったので、交尾期には他の強い犬に噛まれて、毎《つね》に血だらけになった。デカは強いので、滅多に敗《ひけ》は取らぬ。然し其悲鳴して他の雄犬を追かける声は、世にも情無《なさけな》げな、苦痛其ものゝ声である。弱い者素より苦み、強い者がまた苦む。生物《せいぶつ》は皆苦む。思うに惨《いた》ましく、見るに浅ましい。然し此れが自然の約束である。即ち命を捨てゝも命は自己を伝えずには措《お》かぬ。
 都々逸《どどいつ》氏《し》歌うて曰く、
[#ここから3字下げ]
色のいの字と命《いのち》のいの字
    そこで色事《いろごと》命がけ
[#ここで字下げ終わり]
 生殖は命がけ。嫉妬は必死。遊戯で無い。
 命がけで入り込んで、生殖の為に一命を果した彼|無名犬《ななしいぬ》の死骸を、欅《けやき》の根もとに葬《ほうむ》った。向うの方には、二本投げ出した前足《まえあし》に頭《あたま》をのせて、頬杖《ほおづえ》つくと云う見得《みえ》でデカがけろりとして眺めて居た。

           *

 二時間の後、用達《ようたし》に上高井戸に出かけた。八幡《はちまん》の阪で、誰やら脹脛《ふくらはぎ》を後から窃《そ》と押す者がある。ふっと見ると、烏山《からすやま》の天狗犬《てんぐいぬ》が、前足を挙《あ》げて彼の脛《はぎ》を窃と撫《な》でて彼の注意を牽《ひ》いたのである。此犬はあまり大きくもないが、金壺眼《かなつぼまなこ》の意地悪い悪相《あくそう》をした犬で、滅多《めった》に恐怖と云うものを知らぬ鶴子
前へ 次へ
全171ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング