。颯々《さあさあ》――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風《まつかぜ》か。否《いや》、松風でない。峰の嵐でもない。水声《すいせい》である。余は耳を澄ました。何と云う爽《さわやか》な音か。此世の声で無い。確に別天地から通《かよ》うて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしい音《ね》である。人夫にきくと、果して斗満川《とまむがわ》であった。やがて道は山側《やまばた》をめぐってだら/\下りになった。水声の方からぱっと火光《あかり》がさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声《はなしごえ》がして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側の矮《ひく》い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声に架《か》す橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤ/\戸口から入ると、眩《まぶ》しい洋燈《らんぷ》の光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払《せきばら》いと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」

           *

 九月二十五日。雨。
 爺さんでは長過ぎる。不躾《ぶしつけ》でもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓《えきてい》で、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建て離《はな》しの納屋、浴室、窖室《あなぐら》もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸《ほりいど》、山から引いたのと二通りもあって、贅沢《ぜいたく》はないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功《ろうこう》片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向《かわむかい》にあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢《くさむら》を拓《ひら》いて牛馬舎一棟、人の住む矮《ひく》い草舎《くさや》が一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨《あきさめ》を滴《た》らして居る。
 駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓《がらすまど》から形ばかり埒《らち》を結った自然のまゝの小庭《こにわ》や甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉《こすぎ》榲邨《おんそん》の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼《た》いて神明に祈り、机の前に端座《たんざ》して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記《ヨブき》なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族《ゆうぼくぞく》の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己《わ》が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
 落《おち》つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲《ふぎゅういん》と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利《き》くそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指の尖《さき》が左の方に向って鉤形《かぎなり》に曲って居る。打診《だしん》に精神がこもる証拠だ。乃公《わし》の打診は何処をたゝいても患者の心臓《しんぞう》にピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものを抱《かか》えて来た。関家の定紋九曜を刳《く》りぬいた白木の龕《がん》で、あなたが死ぬ時一処に牧場《ぼくじょう》に埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮《こくちょう》と云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道|足寄《あしょろ》郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの
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