の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩《わずろ》うた。色々の「我」が寄って形成《けいせい》して居る彼家は、云わば大《おお》きな腫物《はれもの》である。彼は眼の前に臭《くさ》い膿《うみ》のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色《こうもりいろ》の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧《わ》いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退《しざ》り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀《かみそり》で殺害した事を、彼女は何処《どこ》からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己《わ》が肉《にく》にうけたかの様に切ない声で云った。
聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁《ささや》いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊《き》いた。おかみは、巳代が三歳《みっつ》までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言《いちごん》にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃|飼《か》った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟《たた》りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公《いのこう》が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯《うつむ》くおかみに向うて、此《この》家《うち》の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届《ふとどき》の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
それから二三日|経《た》つと、彼は屋敷下を通る頬冠《ほおかむり》の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張《ひっぱ》った。満地の日光を樫の影が黒《くろ》く染《そ》めぬいて、あたりには人の影《かげ》もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒《ふらち
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