した。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其|韮《にら》や野菜菊は内で作ったの、其|炉縁《ろぶち》は自分のだの、と物毎に争《あらそ》うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其|値《ね》を争うた。買主は戯談《じょうだん》に「無代《ただ》でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者《やそきょうしんじゃ》じゃありませんか。信者が其様《そん》な事を云うてようござンすか」とやり込《こ》めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其|素行《そこう》について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹《きっ》と向き直り、あべこべに義兄に喰《く》ってかゝり、老人と正直者を任《まか》せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張《よくば》ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖《くちぐせ》であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語《がた》りの勢込《いきおいこ》んでまくしかけ、「如何《いか》に兄が本《ほん》が読めるからって、村会議員《そんかいぎいん》だからって、信者だって、理《り》に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、ふん、ふん」と鼻《はな》を鳴《な》らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者《ばくれんもの》で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太《ぶた》さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨《やぶにらみ》で、気が少し変である。ピイ/\声《ごえ》で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負《おぶ》っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女《むすめ》もなくなっただァ」と云いかけて、斜視《やぶ》の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原《はぎわら》の武
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