が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、砧《きぬた》村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛を飼《か》わぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々《もうもう》程農村を長閑《のどか》にするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声が潮《うしお》の如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
台湾を取り、樺太の半を収《おさ》め、朝鮮を併《あわ》せ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型《ひながた》ででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家から創《はじ》めた私共の住居《すまい》も、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺《かやぶき》の四棟《よむね》もあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋《おもや》の南面に風よけの杉籬《すぎかき》を結《ゆ》いました。西の端に唯一本|木鋏《きばさみ》を免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、幹《みき》の太《ふと》さは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世《かくせい》の感があります。私共の村住居《むらずまい》の年標《ねんひょう》として、私は毎々《まいまい》お客に此杉の木を指《ゆびさ》します。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影は覗《うかが》われます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納
前へ
次へ
全342ページ中304ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング