には、何様《どん》な役でも身を入れて勤めた。養父《ようふ》も義弟も菊五郎や栄三郎|寧《いっそ》寺島父子になって了《しも》うた堀川の芝居の此猿廻わしの切《きり》にも、菊之助のみは立派《りっぱ》な伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。
夥《おびただ》しい拍手が起った。吾に復《かえ》ると呂昇と昇華が演壇の上に平伏《ひれふ》して居た。
三
堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘《あまがさ》と、懐中電燈の電池《でんち》を買って、電車で新宿に往った。追分《おいわけ》で下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさと挽《ひ》き出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺《あたり》はひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。
「旦那は重うございますね。二十|貫《かん》から御ありでしょう」
「なまけるからね」
「エ、如何《どう》しても体を烈《はげ》しく使《つか》うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」
車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今|十二社《じゅうにそう》に住んで、十三の男児《むすこ》を頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんは麻《あさ》つなぎの内職をして居る。
「だから中々遊んで居られませんや」
烏山《からすやま》の口《くち》で下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。
雨は止んで居る。懐中電燈の光を便《たよ》りに、真黒い藪蔭《やぶかげ》の路を通って、田圃《たんぼ》に下りた。夜目にも白い田の水。蛙《かわず》の声が雨の様だ。不図東の空《そら》を見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空に映《うつ》る東京の火光《あかり》である。見る/\すうと縮《ちぢ》み、またふっと伸びる。二百万の生霊《せいれい》が吐《つ》く息《いき》ひく息が焔《ほのお》になるのかと物凄《ものすご》い。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処《そこ》に一つ碧《あお》い光が居る。はっと思うと、ついと流れた。螢《ほたる》であった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方《ねかた》が赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光《あかり》であろう。村々は死んだ様に真黒《まっくろ》に寝て居る。都は魘《おそ》われた様に深夜《しんや》に火の息を吐いて居る。
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