に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思《そうし》の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧《かわら》の人無き所に跪《ひざまず》いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。

       四

 本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子《ずし》の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲《けみ》した時である。間もなく彼は上州の山に籠《こも》る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
 明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑《うすみどり》に煙る頃、葛城は渡米の暇乞《いとまごい》に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨《いかり》を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨《けい》さんもとくに去り、葛城独甲板の欄《らん》に倚《よ》って居た。時間が無いので匆々《そこそこ》に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而《そう》して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
 其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立《かおだち》では無いが、色白の、微塵《みじん》色気も鄙気《いやしげ》も無いすっきりした娘で、服装《みなり》も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方《こちら》へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷《たすき》を袂《たもと》に入れて来た。而して台所の事、拭掃除《ふきそうじ》、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
 葛城は新英州《ニューイングラ
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