あったのだ。加之《それに》銭《かね》だって差当り入るだけ無いじゃないか。帰って来て、
「どうも可い宿《うち》はない。」というと、
「急にそう思うような宿は何《ど》うせ見付からない。松林館に行ったら屹度《きっと》あるかも知れぬ。彼処《あすこ》ならば知った宿だから可い。今晩一緒に行って見ましょう。」
 と言って、二人で聞きに行った。けれども其処には何様《どん》な室《へや》もなかった。其の途中で歩きながら私は最後に本気になって種々《いろいろ》と言って見たけれど、お前は、
「そりゃ、あの時分はあの時分のことだ。……私は先の時分にも四年も貧乏の苦労して、またあなたで七年も貧乏の苦労をした。私も最早《もう》貧乏には本当に飽き/\した。……仮令《たとい》月給の仕事があったって私は、文学者は嫌い。文学者なんて偉い人は私風情にはもったいない。私もよもや[#「よもや」に傍点]に引《ひか》されて、今にあなたが良くなるだろう、今に良くなるだろうと思っていても、何時まで経ってもよくならないのだもの。それにあなたぐらい猫の眼のように心の変る人は無い。一生当てにならない……。」
 斯う言った。そりゃ私も自分でも、そう偉い人間だとは思っていないけれども、お前に斯う言われて見れば、丁度色の黒い女が、お前は色が黒い、と言って一口にへこまされたような気がした。屡《よ》く以前、
「あなたは何彼《なにか》に就けて私をへこます。」と言い/\した。私は「あゝ済まぬ。」と思いながらも随分言いにくいことを屡※[#二の字点、1−2−22]言ってお前をこき[#「こき」に傍点]下《おろ》した。それを能く覚えている私には、あの時お前にそう言われても、何と言い返す言葉もなかった。それのみならず全く私はお前に満六年間、
「今日《きょう》は。」
 という想いを唯の一日だってさせなかった。それゆえそうなくってさえ何につけ自信の無い私は、その時から一層自分ほど詰らない人間は無いと思われた。何を考えても、何を見ても、何をしても白湯《さゆ》を飲むような気持もしなかった。……けれども、斯様なことを言うと、お前に何だか愚痴《ぐち》を言うように当る。私は此の手紙でお前に愚痴をいうつもりではなかった。愚痴は、もう止そう。
 兎に角、あの一緒に私の下宿を探しに行った晩、
「あなたがどうでも家にいれば、今日から私の方で、あなたのいる間、親類へでも何処へでも行っている。……奉公にでも行く。……好い縁《くち》があれば、明日でも嫁《かたづ》かねばならぬ。……同じ歳だって、女の三十四では今の内早く何うかせねば拾ってくれ手が無くなる。」と言うから、
「じゃ今夜だけは家にいて明日からいよ/\そうしたら好いじゃないか。そうしてくれ。」と私が頼むように言うと、
「そうすると、またあなたが因縁を付けるから……厭だ。」
「だって今夜だけ好いじゃないか。」
「じゃあなた、一足|前《さき》に帰っていらっしゃい。私柳町に一寸寄って後から行くから。」
 私は言うがまゝに、独り自家《うち》に戻って、遅くまで待っていたけれど、お前は遂に帰って来なかった。あれッきりお前は私の眼から姿を隠して了ったのだ。
 それから九月、十月、十一月と、三月の間、繰返さなくっても、後で聞いて知ってもいるだろうが、私は、お前のお母《っか》さんに御飯を炊いて貰った。お前も私の癖は好く知っている。お前の洗ってくれた茶碗でなければ、私は立って、わざ/\自分で洗い直しに行ったものだ。分けてもお前のお母《っか》さんと来たら不精で汚らしい、そのお母さんの炊いた御飯を、私は三月――三月といえば百日だ、私は百日の間辛抱して食っていた。
 お前達の方では、これまでの私の性分を好く知り抜いているから、あゝして置けば遂に堪らなくなって出て行くであろう、という量見《かんがえ》もあったのだろう。が私はまた、前《さき》にも言ったように、自然《ひとりで》に心が移って行くまで待たなければ、何うする気にもなれなかったのだ。
 それは老母《としより》の身体で、朝起きて見れば、遠い井戸から、雨が降ろうが何うしょうが、水も手桶に一杯は汲んで、ちゃんと縁側に置いてあった。顔を洗って座敷に戻れば、机の前に膳も据えてくれ、火鉢に火も入れて貰った。
 段々寒くなってからは、お前がした通りに、朝の焚き落しを安火《あんか》に入れて、寝ている裾から静《そっ》と入れてくれた。――私にはお前の居先きは判らぬ。またお母さんに聞いたって金輪際それを明す訳はないと思っているから、此方《こっち》からも聞こうともしなかったけれど、お母さんがお前の処に一寸々々《ちょいちょい》会いに行っているくらいは分っていた。それゆえ安火を入れるのだけは、「あの人は寒がり性だから、朝寝起きに安火を入れてあげておくれ。」とでもお前から言ったのだろう
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