木々は細い梢の尖までも數へられる程に大氣は澄んで、黄金色の日光が其等の青い葉々に透きとほるやうに美しく漲つてゐる。天地渾然として瑠璃玉の如く輝いてゐる。駒ヶ岳にも今日は風に吹き拂はれてか、めづらしく雲霧がかかつてゐない。それに自分は一昨日までに書く物も一段落を告げてこゝ二三日は頭を休め、放心したやうになつて居ようとおもつてゐる時である。よく晴れた日は書く物に精神を勞してゐる、休養してゐる時には山が曇つてゐたり、雨が降つてゐたりして果さなかつたが、今日は兩方都合の好い日である。が、少し風が強過ぎるやうである。それで女中のお秋に相談しようとおもうて呼鈴を押すと、お秋の代りに物靜かな老婢が廊下を歩いて來て、用を伺つた。
「今日これから駒ヶ岳に登らうと思ふんですが、すこし風があるやうですが、どんなものでせう。」
さういつて訊くと、老婢は、
「左樣でございますねえ。」といつて、外の木々の風に搖れてゐるのを眺めながら、思案顏にこちらを向いて、
「今日はすこし風が強過ぎるやうでございますから又の日になすつた方がよろしうございませう。下でこの通りですと、山の上はずつと風が強うございますから、今日はお止めになつた方がお宜しうございます。」
人柄さうな老婢は忠實にさういつて、きつぱり止めた。
「ぢや止しませう。」
と云つて、私は其の時は斷念した。そしてまた暫くして、やがてお秋が運んで來た晝飯を喫しながら庭の方を眺めてゐると、立木などは先刻と同じやうにやつぱり風にざわめいてはゐるが、午前にくらべて稍※[#二の字点、1−2−22]靜かになつたやうである。日光は相變らず朗かに輝いて、そこらの庭木や芝生などが金色を帶びてゐるかのやうに思はれる。私の心はまた動いた。
「お秋さん、先刻駒ヶ岳に上らうとおもつて相談したら、風があるので止めた方がいゝといふので止めたんだが、どうだらうねえ。先刻よりか少し惡くなつたやうだが。」
お秋は外を眺めながら、
「このくらゐなら大丈夫でございます。ついすぐですもの、ぢきに上れますよ。」
と事もなげにいふ。彼女等は昨日の朝私がまだ寢てゐる間に、お客や番頭や女中など七八人の多勢で上つて來たのである。
「いつていらつしやいまし。それは方々がよく見えて、いゝ景色でございますよ。昨日の朝は富士山がよく見えました。あんなに富士山のよく見えることはめづらしいつて番頭さ
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