、そんな深い客のあったことは知っているようでなかった。松井の女主人のいうのでは、あの仏壇の阿弥陀《あみだ》様の背後《うしろ》から出てきた羽織|袴《はかま》を着けた三十余りの男こそ前《さき》にも後にもただ一人きりの深い男であったが、それはもう今からいって一昨年《おととし》の夏の末に死んでしまった。松井の女主人は、先夜会った時にその死んだ男のことをいって、長火鉢の前で多勢ほかの妓《こども》のいる傍で私を、冷笑するような調子で、
「あんたはんお園はんには三野村《みのむら》さんという夫婦約束までした深い人がおしたがな。三野村さんが今まで生きとったら、もうとうに一緒になってはる」そういって三野村という、彼女の方からもひところは深く思いまた向うからは変らず深く思われていた男のあったことをいろいろいい出して、そんな深い男のあったのも知らずして、好い気で遠くの東京の空の果てにいながらただ一途《いちず》にその商売人の女を思いつめていたばかりか、こうなりゆいた今までも潔く諦めようとはせずにやっぱりその女に想《おも》いを残している男の呆気《うつけ》さ加減のあまりに馬鹿らしいのを、いささかの同情もなく冷たく笑っていた。その時の女あるじの口うらなどから細かに推察してみても、どうも、今の世話になっているその人間が女とさまで深いわけがあったとは考えられない。それどころではない、もとの女あるじが、
「三野村さんはあってもお園さんは、あんたはんも好きやった。三野村さんの死んだあとは、あんたはんのところに行く気やったのどすやろ」と一口いったことを思ってみても、女の底意は察することが出来るのである。私は、それを思うにつけても、毎度近松の作をいうようであるが、「冥途《めいど》の飛脚《ひきゃく》」の中で、竹本の浄瑠璃《じょうるり》に謡《うた》う、あの傾城《けいせい》に真実なしと世の人の申せどもそれは皆|僻言《ひがごと》、わけ知らずの言葉ぞや、……とかく恋路には虚《いつわり》もなし、誠もなし、ただ縁のあるのが誠ぞやという、思うにまかせぬ恋の悲しみの真理を語っている一くさりを思い合わせてふっとした行きちがいから、何年にも続いて、自分の魂を打ち込んで焦心苦慮したことがまるで水の泡になってしまったことを慨《なげ》いても歎《なげ》いても足りないで私はひとり胸の中で天道を怨みかこつ心になっていた。
そして何とかして今すぐにも女を自分の手に取り返す術《すべ》はないものかと思いつづけていた。
「それで今本人はどうしています? 私に会おうともいいませんか」私は彼女に面と向って怨みのたけを言いたかった。
「ええ、それで姉さん今ここへ来やはります。……お母はんには、あんたはんは、もうとうにここからお帰りやしたことにして」と、入口の方に気を配りながら、越前屋の主人はその前に坐っている婆さんにも聞えぬように、そうっと私の耳のところに口を持ってきて押っつけるようにしながら「それからなお姉さんがこんなことをいうてはりました。――えらい失礼やけど、もしまたあんたはんがお小遣いでもお入用どしたら私の手を経て姉さんの方からどうともしますよって、そのこともちょっというといてくれ言うてはりました」
私は、それをじいっと聞いていて、越前屋の主人の口から静かに吐き出す温かい息が軟《やわら》かに耳朶《みみたぶ》を撫《な》でるように触れるごとに、それが彼女自身の温かい口から洩れてくる優しい柔かい息のように感じられて、身体が、まるで甘い恋の電流に触れたように、ぞくぞくとした。
主人が口を離すのを待って、私は、嬉しさに堪えかねた気持で、
「ああ、そうですか。そんなことをもいいましたか。……いやしかし、それだけ聞けば満足です。私ももう何年もの間|彼女《あれ》のことばかり思い続けて何をするにも手につかずお話のならぬ不自由な目をして来ましたが、まさか私一人の用くらいに事は欠きませんから、そんな心配は無用にしてくれ、それよりも一日も早く自分の決心をしてくれるようにいっておいてください」私はもう少しも毒のない、優しい心に帰りながら静かにそういった。
主人は私のいうことを聞きながら、外の路次の方に気がかかるように、
「姉さんもう来やはりますやろ」といっているところへ、入口に立っていた越前屋の若い女房はそちらから、
「ああ来やはりました」と低声《こごえ》で知らせる。
主人はそれで、表の間の方に立っていって出迎えながらわざと声を大きくして隣りの母親に聞えるように、
「お母はんえらい済んまへんが、どうぞ、今お話しましたとおりですよって、ちょっと姉さんをお貸しやしとくれやす。……あのおかたはもうさっき帰らはりましたよって、どうぞ安心してとくれやす」といって、そこへ、おずおず入ってきた隣りの女をやさしくいたわり招じ入れた。
六
「さあ、姉さん、ずっとこちらへお入りやしとくれやす。ほかに遠慮するような人だれもいいしまへんよって」
といいつつ、主人は母親が今まで敷いていた蒲団を裏返して、長火鉢に近いところに直した。主人の背後《うしろ》に身を隠すようにしながら、庭から茶の間に入ってきた彼女は、隅の暗いところに立ち竦《すく》んだまま、へえへえと温順に会釈《えしゃく》ばかりして、いつまでもそこに居わずろうている風情《ふぜい》である。
婆さんもともに声をかけて、
「姉さん、なんもそないに遠慮せんかてよろしい。さあさあそなとこにおらんとずっとこちらへお上りやす。きつう寒うおす」
彼女が、そうしたまま、いつまでも家の人たちに口をきかしているのを傍にいて見かねながら、私もそちらを振り顧って、
「皆さんがいうて下されるのだから早うこちらへ上がったがいいだろう」と、声をかけながら、そこに佇《たたず》んだ容姿《すがた》をちらと見ると、蒼ざめた頬のあたりに銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》の毛が悩ましく垂《た》れかかって、赤く泣いた眼がしおしおとして潤《うる》んでいる。
女はなおも面羞《おもはゆ》そうな様子をしながら、
「わたし、もう、ここで失礼いたします」と、口の中でいって、上がろうとせぬ。
主人も婆さんも、声をそろえて、
「何おいやす、姉さん。そんなとこにいられしまへん。さあさあ」と急いだ。
女は、「へえ」と腰をこごめながら、それでやっと、「ほんならここからどうぞごめんやす」と沈み沈み言って、上り框に躙《にじ》り上がって、茶の間の板の間のところに小さくなって坐った。主人はそれを咎《とが》めるように、
「姉さん寒いのに、そんなとこにおられしまへんたら、さあこちらへおいでやして、兄さんの傍に来て火鉢におあたりやす」と手を取らんばかりに世話を焼いた。
女は幾たびもいくたびも催促せられて、まだ泣きじゃくりをしながら、ようよう座蒲団の上まで寄ってきた。
主人は、合壁の隣りに居残っている母親に気を兼ねて、声をひそめ、二人の仲を改めて取りなすような口を利《き》いて、
「さあ、姉さん、ここは私の内どす。もう誰に遠慮もいりまへんよって、兄さんと心置きのう話したい思うておいでやしたことをお話しやす」
そういったが、彼女は、何といわれても、ただ「へえ、へえ」と、低い声でいうのみで、憂わしそうに湿っている。
私も、あれほど会いたい、見たいと思っていながら、そうして面と顔を差し向ってみると、即座に何からいい出していいやらいいたいことがあり余って、かえって何にもいいえないような気がして、初心《うぶ》らしくただ黙っていると、主人は、小言のように、
「さあ、兄さんも何とか姉さんに言葉をかけてお上げやす」と言ったが、二人ともそのままやっぱり黙っていた。
そこでかえってそこにいて用のない生酔いの婆さんが傍からまたしてもうるさく口出しをするのを、彼女も私も同じ思いで、神経に障るように自然と顔に表わしていた。主人はそれを払い退《の》けるように、
「お婆さんあんた、あっちい往《い》といでやす。あんた自分で関係せんというといやしたやないか」とたしなめておいて、女の方を見て言葉を改めながら、
「姉さん、今いろいろあんたはんから聞きました事訳《ことわけ》はあらまし私から兄さんにお話して兄さんも心よう納得してくりゃはりましたよって、それはどうぞ安心しておくれやす……」といって、しばらく間《ま》をおいて一層声に力を籠《こ》めて、
「その代り私がこうして仲に入って口を利きました以上は、姉さん今度また私にまでも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をお吐《つ》きやすようなことがおしたら、その時こそ今度は私が承知しまへんで……。よろしいか」と、念を押すように言った。
彼女はそれでまた温順《おとな》しく、「へえ」とうなずきながら両手の襦袢《じゅばん》の袖《そで》でそっと涙を拭いている。まだ商売をしている時分から色気のないくらい白粉気《おしろいけ》の少い女であったが、廃《や》めてから一層|身装振《なりふ》りなど構わぬと思われて、あたら、つくれば、目に立つほどの標致《きりょう》をおもいなしにか妙に煤《すす》けたように汚《よご》している。そのうえ今泣いたせいか美しい眼のあたりがひどく窶《やつ》れている。ここのあるじがさっきも、戻って来てからの話に、
「姉さんがおいいやすのが本間《ほんま》に違いおへんやろ。自分も好きで世話になってる旦那があるのやったら、あんなものやおへん。この隣りに越しておいでやしてからでももう三月か四月になりますけれど、姉さんが綺麗にしておいでやすのを内の者だれかてちょっとも見いしまへん。お湯にかて、そうどすなあ、十日めくらいにおいでやすのを見るくらいのものどす」といって、隣家《となり》にいてそれとなく気のついている、女の平常《ふだん》のことを噂《うわさ》していたが、今じっと女の容姿《すがた》を打ちまもりながら心の中で、なるほど主人のいうとおり、今の彼女にはつくるの飾るのという気は少しもないものと見た。そして私もやっと口を切って、彼女に話しかけた。
「私も一伍一什《いちぶしじゅう》のことを話して、あんたにとくと聴いてもらいたいことは山ほどあるけれど、それをいい出す日になれば腹も立てねばならぬ、愚痴もいわねばならぬ。とても一と口や二た口では言い尽せぬし、あんたもそんな病後のことだから、それはまたの日に譲っておく。それで今こちらの親方から聴いたとおり、しかたがない好い機《おり》の来るまで辛抱しているつもりでいるから、あんたもその気でいてもらわねばならぬ」私は、あれほど、逢わぬ先は会ったらどうしてくれようと憤怒に駆られていたものが、そうして悄然と打ち沈んでいるのを面と向って見ると、打って変ったように気が弱くなってしまって、怨みをいうことはさておき、かえって、やっぱり哀れっぽい容姿《すがた》をしている女をいたわり慰めてやりたい心になった。
すると彼女は私からはじめて物をいいかけられて、どんな気になったのか、今までの温順しく沈んでいた様子とはやや変った調子になって、
「あんたはん何で山の井さんへいて、その話をしておもらいやさんのどす」と、神経質の口調で不足らしく言う。山の井というのは初めて女を招《よ》んでいた茶屋の名である。
私は、女のそういった発作的の心持を推測しかねて、ちょっと不思議そうに彼女の顔を見たが、
「あんた今、この場でそんなことをいい出したってしかたがないじゃないか」といったが、おおかた彼女の腹では自分の心にもなく今の人間に急に脱ぐことの出来ない恩義を被《き》なければならぬようになったのも、自分の知らぬ間に母親とその男との仲に立ってもっぱら周旋したのがその客で入っていたお茶屋の骨折りであったことを思って、もう今となっては、ちょっと抜き※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》しならぬ破目《はめ》になってしまったのも、私が最初からの茶屋を通して話を進めなかったことの手ぬかりを言うのであろうと思った。けれども、そうなり入った原因《もと》をいえばまた彼女にもそうした責めがないでもなかったのだ。
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