そういって、宿の名とところとをくわしく教えると、母親は少し考えるようにして、明日はちょっと都合が悪くてゆけないから明後日《あさって》はきっと訪ねて行きますという。その約束を堅めて、
「あんたはんもまた風邪ひかんように早う往んでお休みやす」
「お母はんもあまり心配せんと。そのうえ自分がまた患《わずら》ったら困りますよ」
 挨拶《あいさつ》を交わして、そのままそこで立ち別れた。日はもうとっぷり暮れて、寒い寒い乾《かわ》いた夕風が薄暗《うすやみ》の中を音もなく吹いていた。

     七

 母親の居処が知れて、まず一と安心したものの、路次の出口の女房のはなしでは、つい五、六日前に先の二階借りのところから引き移って行ったという。それを母子の者はなぜ私に対して隠していたか、考えて見ると水くさいしうちである。それにさっき飯田と表札を打った家の潜り戸を開けて母親が中から出て来ながら、ちょうどこちらが押し入ってゆこうとするのを先廻りをして入れまいとでもするような様子をしたのが疑ってみればみるほど変である。まあ、しかし、そんなことをあくどく根問《ねど》いせぬ方が美しくっていい、委細は明後日宿へ訪ねて
前へ 次へ
全89ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング