にはない。それと同じ姓は、この隣村の何がし村の聞き違えではないか、その村には藤村という姓が多いという。しかしその村もやっぱり鷲峰山《しゅほうざん》という高い山の麓になっているので、そこまで入って行くには、どちらからいっても困難であるが、まだここから行くよりも、ここから三つめの停車場の加茂から入って行った方がいいが、それでも五、六里の道である。そちらからならば俥《くるま》が通うかも知れぬといって教えてくれた。
大河原ということは、今度の場合に限らずこれまでもたびたび母親の口から聞いているので、そんな人間が実存するなら大河原にちがいはなかろうと思ったが、あの連中の言うことには、どんな虚構があるかも知れぬ。もしや、その隣村ではあるまいかと思案して、ここまで乗りかかったついでに、どこまでも追究せずにはいられない気がするので、私はそこまで探ね入って行く決心をした。南山城の相楽《さがら》郡といえばほとんど山ばかりの村である。そこに峙《そばだ》っている鷲峰山は標高はようやく三千尺に過ぎないが、巉岩《ざんがん》絶壁をもって削り立っているので、昔、役《えん》の小角《おづぬ》が開創したといわれている近畿《きんき》の霊場の一つである。その麓を繞《めぐ》って、ほとんど外界と交通を絶ったような別天地が開けているのである。
私はこの寒空にそこまで入って行くことの容易ならぬことを思って、幾度か躊躇《ちゅうちょ》して、長い太息《ためいき》を吐いたが、女がもしその深い山の中に行っているとしたら、自分もそこまで入ってゆかねば会うことも見ることも出来ぬのであると思うと、それを中止するのも何だか心残りである。そう思って、大河原駅からまた笠置《かさぎ》、加茂と三つ手前の駅まで引き返して戻った。そして、加茂駅に下車して停車場の出口で、そこに客待ちをしながら正月のお飾りをこしらえていた二、三人の車夫に、何がしの村までこれから行ってくれぬかというと、彼らは、呆れた顔をして、笑いながら、
「とっても……」と、一口いったきりで顔を横に振って対手《あいて》になろうとせぬ。なおよく訊ねると、泥濘《ぬかるみ》が車輪を半分も埋めるので、俥が動かない、荷車ならば行くという。
私は、思案に暮れてしばらくそこに突っ立って考えていたがそうかといって、断念する気にはならぬので必ず行くという決心はなかったがしかたなく駅路《うまやじ》の、長い街《まち》つづきを向うへ向うへとどこまでも歩いて行った。やがて半道も行くと、街道はひとりでに高い木津川の堤に上がっていった。木津川も先きの大河原駅あたりから、ここまで下って来ると、汪洋《おうよう》とした趣を備えて、川幅が広くなっている。鷲峰山下の村に通う街道は、そこに架した長い板橋を彼方《むこう》に渡ってゆくのである。私は、ゆこうかゆくまいかと思うよりも、行けるかどうかを気づかいながら、ともかくその長い板橋を向うに渡っていった。それでも、なかなか交通が頻繁《ひんぱん》だと思われて、相応に人が往来している。私は長い橋の中ほどに佇《たたず》んで川の上流の方を眺《なが》めると、嶮岨《けんそ》な峰と峰とが襟《えり》を重ねたように重畳《ちょうじょう》している。時によっては好い景色とも見られるであろうが、午後から何だか、寒さが増して陰気な空模様に変ったと思っていたら、雪花《ゆき》がちらりちらり散って来た。私は、長い橋の上に立って空を見上げながら、「この空模様で、膝《ひざ》を没する泥濘道ではとてもおぼつかない」とまた思案をしたが、ともかく橋を向うに渡ってなお歩いていると、そこへ後からがらがら空車《からぐるま》を挽《ひ》いた若い男の荷馬車がやって来た。私はその男に声をかけた。
「その荷馬車はどこまで行く? 何がしの村まで行かぬか」
と訊ねると、その途中まで帰るのだという。
「君、その荷馬車に乗せてもらえないか」と頼むと、
「ああ、乗って行きなはれ」といいながら、彼はずんずん行く。
それは、何か貨物を運搬した帰りと思われて、粗雑な板箱の中は汚《きたな》くよごれている。私はそれを見て心を決しかねて、なお後からついてゆくと、彼はしばらく行くと、馬を停《と》めておいて、道傍《みちばた》にあり合わした藁塚《わらづか》から藁を抜き取って来て、それを箱の中に敷いて、
「さあ、乗んなはれ」という。
私は、心に、若い馬子《まご》の深切を謝したものの、さすがにその荷車に乗りかねた。自分は、何の因果であの女が諦められぬのであろう、と感慨に迫りながら行く手の方を見ると、灰色空の下に深い山また山が重畳している気勢《けはい》である。
「いや、もう、止《よ》そうか」と、若い馬子にいって、私はとうとう断念して引き返した。そしてまた木津川の長い板橋を渡ってくると、雪を含んだ冷たい川風が頬を斬《き》るよ
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