母親は、引ったくるような調子で、
「あんたはん、そんな委しいこと知らはりゃしまへん。そんな親類ありますがな」という。
「へえ? 何という親類です? やっぱり大河原の?」と重ねて訊くと、傍の男は、またそれを受け取って、
「自分で、藤村の親類で、やっぱり藤村利平という者だというとった。その人間がわざわざ私のところに来て依頼して帰った」
「あんたはん、あんな遠いところからそのことで出て来てくれたのどす」二人は調子の合ったことをいっている。
私も、心の中で、ああいうのだから、そんな親類があるのかも知れぬと思った。
「じゃ、私がその藤村利平という人に一応会って話しましょう」
「いや、もうこの間ちょっと来て、すぐ帰ってしもうた」といってしまう。
ついに、どちらのいい分も要領を得ずにそんな取り留めのない話になったが、私の心は、どうあっても女を思い絶たない、女に会わなければ承知しないが腹一ぱいで、たといこの天地が摧《くじ》けるとも女を見なければ気が済まぬのである。それで、とうとう三、四時間も話し込んでいる内に暗くなってしまったので、その男は、忙しいといって立ちそうにするのを、私はどこまでも一度女に会って、差向いで納得するような話をしなければ何といってもこのままに済ますわけにはゆかぬといい張った。
すると、母親もその男も遅《おそ》くなって心が急《せ》くのと両方で、
「そやから、病気さえ良うなったら、あんたはんにも会わせますいうてるやおまへんか」
「きっと会わせますな」
ということにして、二人は帰った。
八
この間母親と一緒に来た小村という男が、十日か十五日経ったら会わせましょうと受け合ったので、自分もそれで幾らか安心して、なるべく他のことに気をまぎらすように努めながら、その十日間の早く経つのを待っていた。そして約束の十日が過ぎると、もうそのことばかりが考えられて心が急くので、宿からあまり遠くないところと聞いていた、その小村の家を訪ねて往って、この間母親と一緒に来た時に聴き残した、もっと委しいことをあれこれと訊ねてみた。そして、金を出したのはやっぱり南山城の大河原|字《あざ》童仙房《どうせんぼう》というところの藤村利平という人間であって、その人間が、自分の事務に携わっている室町竹屋町の法律事務所にわざわざ訪ねて来て、親戚《しんせき》関係の藤村の娘のことを依頼していったのである。大河原の童仙房というところにそういう人間があるかどうか、自分は委しいことは知らぬが、事務所の方には四、五年前に他の事件を依頼して来たことがあるので、今度はその縁故で来たのである、という。
私は、それを、この間はじめて聞いた時から幾度となく疑ってみた。そんな親類があって、こんどそれだけの金を出してくれるくらいならば、そもそもあんな卑しい境涯《きょうがい》に身を沈めない前に泣きついて行くはずである。けれども、そういう親類があるというから、あるいはそうかも知れぬ。そして、
「もう、あれからしばらく経ったから、病気も大分良くなったでしょう。私自分で一遍往って様子を見て来たいと思うんですが」というと、小村は口をきくよりも先きに頭振《かぶ》りをふって、
「いやいやまだなかなかそんなどころでない。母親の話ではどうも良くないらしい」という。
「とにかく、それでは私が自分で往ってみましょう」といって、女の静養しているという山科《やましな》の方の在所へ往く道順や向うのところを委しく訊ねると、小村は、君が独《ひと》りで往ったのではとても分らない、ひどく分りにくいところだといっていたが、それでも強いてこちらが訊くので、山科は字小山というところで、大津ゆき電車の毘沙門《びしゃもん》前という停留場で降りて、五、六町いった百姓家だという。姓はときくと、さあ姓は、自分も一度母親に連れられて一度行ったきりでつい気がつかなかったが、やっぱり藤村といったかも知れぬという。
まるで雲を掴《つか》むような当てのないことであるが、私はそれから小村方を出て、寒い空に風の吹く砂塵《さじん》の道を一心になって、女に食べさすために口馴染《くちなじ》みの祇園のいづ宇の寿司《すし》などをわざわざ買いととのえて三条から大津行きの電車に乗った。小村のいった毘沙門前の停留場というのは、大津街道の追分からすこし行くとすぐなので、そこで電車を降りて、踏切番をしている女に小山というところへ行くのはどう往ったらよいかと訊ねると、女は合点のいかぬように、
「小山はここから五、六町やききまへんなあ。あこに見えるのが小山どすよって、一里もっとおすやろ」といって指さす方を見ると、田圃《たんぼ》の向うの逢阪山《おうさかやま》の峰つづきにあたる高い山の麓《ふもと》の方に冬の日を浴びて人家の散らばっている村里がある。私は、あそこま
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