そういって、宿の名とところとをくわしく教えると、母親は少し考えるようにして、明日はちょっと都合が悪くてゆけないから明後日《あさって》はきっと訪ねて行きますという。その約束を堅めて、
「あんたはんもまた風邪ひかんように早う往んでお休みやす」
「お母はんもあまり心配せんと。そのうえ自分がまた患《わずら》ったら困りますよ」
挨拶《あいさつ》を交わして、そのままそこで立ち別れた。日はもうとっぷり暮れて、寒い寒い乾《かわ》いた夕風が薄暗《うすやみ》の中を音もなく吹いていた。
七
母親の居処が知れて、まず一と安心したものの、路次の出口の女房のはなしでは、つい五、六日前に先の二階借りのところから引き移って行ったという。それを母子の者はなぜ私に対して隠していたか、考えて見ると水くさいしうちである。それにさっき飯田と表札を打った家の潜り戸を開けて母親が中から出て来ながら、ちょうどこちらが押し入ってゆこうとするのを先廻りをして入れまいとでもするような様子をしたのが疑ってみればみるほど変である。まあ、しかし、そんなことをあくどく根問《ねど》いせぬ方が美しくっていい、委細は明後日宿へ訪ねて来た時に、よくわかるように、なんどりと話してみよう、と、それからそれへと、疑ってみたり、また思いなおして安心してみたりしながら宿へ帰って来た。
それから中一日置いて、約束の明後日になって、今に来るかくるかと一日どこへも出ず晩まで待っていたけれど母親は訪ねて来ないので、とうとう待ちあぐねて、日暮れ方にまたこちらからそこまで出かけて往ってみた。と、一昨日《おととい》見た飯田と誌した表札は取りはずしてしまって、相変らず潜戸は寂然《しいん》と閉まっている。ややしばらくそのままそこに佇《たたず》んで思案をしていると、すぐ左隣りの二十七、八のおかみさんが、入口から顔を出して、
「お隣りはもうお留守どっせ」という。
「ああそうですか。もうお留守て、誰もいないのですか」と重ねて訊くと、
「ええ、私、どやよう知りませんけど、何でも病人さんが、えらい悪うて入院してはりますとかいうて、お婆さんも昨日付いて行かはりまして、今どなたもいやはりゃしまへん。何や知らん、お婆さんこの二、三日えらい忙しそうにいうてはりました」という。
私は、何だか狐《きつね》につままれたようで、茫然《ぼうぜん》としていたが、そういえば、母親が一昨日話していた隠居のお婆さんが入院したというのかも知れぬと思いながら、なおそこを立ち去りかねて、一、二度表から潜り戸を引っ張ってみたり、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、443−上−15]子窓《れんじまど》の磨《す》り硝子《ガラス》の障子の隙《すき》から家の中を窺いてみようとしたけれど、隣家《となり》の女房が見ているので、押してそうすることもならず、そのまま引き返して路次を出て来た。そして群疑《ぐんぎ》はまた雲のごとく湧《わ》き上った。けれども、母親のいったように付き添うている隠居の婆さんと、自分の娘と二人の病人を持っているのが真実ならば、急《せわ》しい道理である。今日は私を訪ねるという約束が一日二日延びても無理はないと、また思い直して、悄然《しょうぜん》として宿の方に戻ってきた。
その翌日《あくるひ》、たしかに当てにはならぬが、もしか今日は来はせぬかと、また一日外へ出ぬようにして心待ちに待ちながら、不安と疑いとに悩まされて欝《ふさ》ぎ込んでいると、二、三時ごろになって、宿の者が、お年寄りの御婦人の方がお見えになりましたと知らして来たので、とうとう来たなと、すぐ通してくれるようにいって待っていると、表の方から、長い廊下を伝うて部屋に入って来たのは、母親のほかに今一人、かつて見も知らぬ、人相がはなはだ好くない五十余りの、背のひょろ高い、痩《や》せぎすの男である。見ると蒼白《あおじろ》い顔色に薄い痘痕《あばた》がある。
私はその男の様子を見ると同時に、はっとした感じが頭に閃《ひらめ》いた。それで、じっと心を落ち着けて、態度を崩《くず》さぬようにしながら、平らやかな顔をしてわざと丁寧に一応の挨拶を交わしてみると、その男は懐中から一枚の名刺を取り出して私の前に差し出しながら、
「私はこういう者です」という。
「ああそうですか」といいつつ、それを手に取り上げて読んでみると、「京都市何々法律事務所事務員小村|何某《なにがし》」と仰山に書いている。私は、
「ああそうですか」と重ねてうなずいて見せたがこんな男が二人や三人組んで来たくらいで、びくともするのじゃないが、それにしても一昨々日《さきおととい》の晩、母親と立ち話をして別れた時にも、自分はどこまでも人情ずくで、真実|母子《おやこ》二人の者の身を哀れに思ったのであった。そして、哀れに思えばこそ一人|愛《
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