に燃えているのなどが目についた。それから仁和寺《にんなじ》の前を通って、古い若狭《わかさ》街道に沿うてさきざきに断続する村里を通り過ぎて次第に深い渓《たに》に入ってゆくと、景色はいろいろに変って、高雄の紅葉は少し盛りを過ぎていたが、見物の群衆は、京から三里も離れた山の中でも雑沓《ざっとう》していた。私は、高い石磴《いしだん》を登って清洒《せいしゃ》な神護寺の境内に上って行き、そこの掛け茶屋に入って食事をしたりしてしばらく休息をしていたが、碧《あお》く晴れた空には寒く澄んだ風が吹きわたって、茶褐色《ちゃかっしょく》のうら枯れた大木の落葉がちょうど小鳥の翔《かけ》るように高い峰と峰との峡《はざま》を舞い上がってゆく。愛宕《あたご》の山蔭に短い秋の日は次第にかげって、そこらの茶見世から茶見世の前を、破れ三味線を弾《ひ》きながら、哀れな声を絞って流行唄《はやりうた》を歌い、物を乞《こ》うて歩く盲《めし》いた婦《おんな》の音調が悪く腸《はらわた》を断たしめる。侘《わび》しい心にはどこに行っても明るく楽しいところがなかった。
五
田舎へ往ってからも二、三度手紙を出して、今、悪い風邪が流行っているが、変りはないかと訊《たず》ねて越《おこ》したりしたが無論何とも言って来なかった。京都に出てくると、その晩すぐ手紙を出して、今度はこういうところにいるから、一度訪ねて来てもらいたいと言ってやったけれど、例のとおりに何ともいって来なかった。そして、今度の宿は、先のところとちがい気の張らないだけに、土地柄からいっても、何からいっても陰気で、気が晴れ晴れとしないので私は部屋の中にじっとしているのがいたたまらなくなって、高雄の紅葉を見にいった翌晩祇園町の方に出て往き、夜にまぎれて女の勤めている家の前をそっと通ってみた。
すると、不思議ではないか。入口の格子戸《こうしど》の上のところに、家に置いている妓《こ》の名札が濃い文字で掲げてあるのに、しかもその女の札は、もう七、八年もそこに住み古しているので、七、八人も並んで札の掲っている一番筆頭であるのに、なぜか、そこのところだけ、ちょうど歯の脱《ぬ》けたようになっているではないか。察するところ、札を外《はず》してからまだ幾日も日が経ぬのでまだ名札をはずすだけはずして後を揃《そろ》えず、そのままにしているのらしい。私は寒い夜風の中に釘付《くぎづ》けにされたような気持で、そこへ突っ立ったまま、
「はて、不思議だ。どうしたのだろう?」と、思った。彼女を知ってから五年の長い間、不安に思う段になれば、随分不安なわけであった。日夜数知れぬ多くの人に名を呼ばれている境涯《きょうがい》の身であれば、商売を廃《や》めるからとて、一々馴染みの客に断って往くわけのものでもない。けれども自分は、初めから度胸を据《す》えて、女は私に黙って、そこから姿を消して往[#底本では「住」と誤記、429−上−14]かないと信じていた。百に一つ、そんな場合がありはせぬだろうかと、遠く離れていて、ふと不安に襲われることがあっても、何となく、そんなことはめったになさそうに思われたのであった。しかるに、今、まぎれる方もなく、明らかに彼女の名札が取れているのを見ると、近いうちにここにいなくなったに相違ない。籠《かご》に飼われた小鳥と同じく容易に逃げていなくなる気づかいはないと思っていたのは、もとよりこちらの不覚であった。そんなことがありはせぬか、せぬかと不安に思いながら、今までなかったから、あるまいと思っていたら、とうとう籠の鳥は、いつの間にか逃げてしまった。
私は、そこに棒立ちになったまま、幾度か自分の眼を疑って、札の取れているのが、どうぞ悪い夢であれかしと念じたが、たしかに札は取れている。よほど思いきって、そのままその家へ入って行って訊ねてみようかと思った。彼女に自分という者が付いているのは、ここの家でもよく知っているはずである。構いはしないだろうと思ったが、自分は、彼女と関係の出来た最初から、どこまでも蔭の者になって、そっと自分の所有《もの》にしてしまうつもりであったので、今さら、女がいなくなったといって、そこの家へ訪ねて往き、自分のほかに、もっと深いふかい男があって、その男に落籍《ひか》されたのに、こちらが、男は自分ひとりのような顔をしていて、裏にうらのある、そんな稼業《かぎょう》のものの真唯中《まっただなか》に飛んだ恥を曝《さ》らすようなことがあってはならぬ。自分は、彼女をこそ、生命《いのち》から二番めに愛していたけれど、それとともに自分の外聞をも遠慮しなければならぬ。
と、焦躁《いらつ》く胸をじっと抑《おさ》えながら急いで、そこの小路を表の通りに出てきて、そこから近い、とある自動電話の中に入って、そこの家の番号を呼び出して訊ね
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